かつ消え
遠くで、何かが破裂した。
体育館じゅうの空気が、一度、内側に押された。
高窓がびりびりと鳴って、天井から、
細かい埃が雪みたいに降ってきた。
手首が震えて、暗闇の中に、青い光が一斉に咲いた。
体育館じゅうで悲鳴が上がった。
まわりで、毛布を跳ねのける音がいくつも重なった。
足音が四方に散って、誰かがわたしの毛布の端を踏んでいった。
サクたちのところに戻らなきゃ、と思った。
思ったときには、もう立ち上がっていた。
「待って、暗い——」
すぐ横で、あの人の声がした。
一歩目で、足が何かに引っかかった。
毛布だった。
体が、前にのめった。
その先に何があるのか、わたしは知っていた。
体育倉庫の、鉄の扉。
角が尖っていて、六年間、
先生に「そこで遊んじゃだめ」と言われ続けた扉。
知っているのに、体はもう止まらなかった。
腕を、つかまれた。
強い力だった。
肩が抜けるかと思うくらい引っぱられた。
それでも体は半分前に倒れていって、ぶつかる、と目をつぶった。
ぶつかったのは、扉ではなかった。
手だった。
大きな手が、わたしの頭と扉のあいだに入っていた。
ごつ、という鈍い音が、その手の向こう側でした。
すぐ耳の上で、誰かが息をのむ音がした。
二人まとめて、床に崩れた。
抱えこまれた腕の中は、あたたかかった。
石けんの匂いと、ほんのかすかに、ソースの匂いがした。
焼きそばみたいな匂いだった。
こんなときに、何を嗅いでいるんだろう、わたし。
体育館の外で、防災放送のスピーカーが鳴りはじめた。
「燃料の処理です。危険はありません」
ひび割れた声が、同じ言葉を何度も繰り返していた。
まわりのざわめきが、それに合わせて少しずつ静まっていった。
「……大丈夫?」
わたしが言った。
声が裏返らなかったのが、自分でも不思議だった。
「そっちこそ」
「わたしは平気。……ねえ、手」
さっきまでわたしの頭にあった手が、少し震えていた。
さわると、手の甲が、温かく濡れていた。
濡れているところが、どんどん広がっていった。
わたしをかばって、あの扉の角にぶつけたのだ。
「動かさないで。けがしてる」
ポケットに手を入れると、ハンカチがあった。
傷の上からかぶせて、両手でぎゅっと押さえた。
血が止まるまで、そのまま待った。
手のひらの下で、脈が打っているのがわかった。
それから端を手首のほうへ回して、きつく結んだ。
おばあさまに、
浴衣の帯の結び方を習ったときと同じ手つきだった。
見えなくても、指が覚えていた。
結び目を作るとき、指先に、刺繍の凹凸がふれた。
あ、と声が出そうになった。
これ、家紋のだ。
おばあさまが自分で縫ってくれた、
家紋の入った絹のハンカチだった。
外には持ち出さないように、と言われていたものだった。
寮に持ってきていることも、本当は内緒だった。
「すみません。汚れますよ、これ」
「いいの。いっぱいあるから」
嘘だった。
家紋の入ったハンカチは、三枚しかない。
その一枚が、いま、知らない人の手に巻かれている。
暗くて、この人には、刺繍は見えていない。
見えていなくて、よかった。
結び終えても、手を離せなかった。
わたしの手は冷たくて、まだ震えていた。
さっき抱えこまれた腕の中は、あんなにあたたかかったのに。
気づかれたくなかったけれど、たぶん気づかれていた。
「……名前、聞いてもいい?」
言ってしまってから、口を押さえたくなった。
「聞いたら、なかったことにならなくなりますよ」
その通りだった。
名前を聞いたら、この二時間は、記録に残らなくても、
わたしの中でなかったことにはならなくなる。
この人は、それをわかっていて断ったのだと思った。
わたしのために。
悲しい、は大げさだ。
さみしい、とも違う。
毛布の端を、誰かにそっと引っぱられたくらいの、小さい何か。
そんなものにまで名前をつけようとしている自分に、
びっくりした。
「……そうだね」
このまま何も残らないのは、いやだった。
「でも、呼び方がないと困らない? もし、あとで何か書くことがあったら」
何を、どこに書くのかは、自分でもわからなかった。
ただ、口が先にそう言っていた。
あの人は、仮名にしようと言った。
佐藤とか、と。
ずるい。
いちばん多いのを、先に取られた。
だから、そっちが佐藤くん。
わたしは、二番目に多い鈴木にした。
佐藤くん、と、わたしは頭の中で言ってみた。
寮の同じ階にも、佐藤は三人いる。
誰かの名前を頭の中で練習したのは、生まれて初めてだった。
電気が戻ったのは、突然だった。
真っ白だった。
光が、目の奥まで刺さってきて、何も見えなかった。
涙が勝手に出た。
床に光の線が走る音がして、スピーカーが何か言っていた。
すぐそばで、佐藤くんが立ち上がる気配がした。
何か言わなきゃ。
名前じゃなくて、ありがとうでもなくて、何か。
「よどみに浮かぶうたかたは」
口から出てきたのは、それだった。
いつもつかえる、最初の一文の、その先だった。
四年間、一度もおばあさまの前で言えなかった続きが、
こんなときに、勝手に出てきた。
「かつ消え」
そこで止まった。
あとは、佐藤くんが言ってくれるはずだった。
さっき、最初の一文のあとを言ってくれたみたいに。
かつ結びて、と。
返事は、なかった。
白い視界の中で、誰かの「区画外です」という声と、
足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
目が慣れたころには、
光の壁の向こうに何百人もの男子がいて、
みんな同じ灰色の毛布をかぶっていた。
どの人が佐藤くんなのか、わからなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
知らなかったのかもしれない。
知っていて、言わなかったのかもしれない。
三つめだったら、少し、いやだと思った。




