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機械じゃない男の声

その週の木曜の夜は、衛星の回収日だった。


白萩は、沢渡と同じ川の、ずっと下流にある。

回収場は上流の、沢渡の埋め立て地だ。

白萩の寮の屋上からは、降りてくる衛星の赤いランプが、

ずっと遠くの小さな点にしか見えない。


その夜のは〈かささぎ〉という名前だった。

お昼の校内放送で、三十年働いた観測衛星だと言っていた。


その名前が、なぜか耳に残った。

どこかで聞いたことのある言葉のような気がした。


十一時過ぎ、わたしは歯を磨きながら、

廊下の窓から上流の空を見ていた。


赤い点が、ゆっくり降りてくる。


それが、二つになった。


天井が鳴った。


廊下の照明が赤に変わって、落ち着いた男の声が言った。


「衛星の落下を検知しました。窓から離れてください。衝撃まで、十八秒です」


この街で聞く男の声は、だいたい機械のものだ。


わたしは歯ブラシをくわえたまま、廊下にしゃがんだ。

口の中がミントで、すうすうした。

おばあさまが見たら、たぶん、警報より先に気を失う。


どこかの部屋で、マルの「えっ、なに、訓練?」という声がした。


十八秒は、思っていたより長かった。


しゃがんで、頭を抱えて、

それでもまだ数えられるくらい時間があった。


上流の空が、一瞬だけ白くなった。


音は、ずいぶん遅れて来た。


遠い雷みたいな、低い音だった。

窓ガラスがかすかに震えて、それきりだった。

白萩は遠いので、それだけで済んだ。


手首が震えた。


〈回収場付近で、衛星が送電設備に落下しました〉


窓の外を見ると、上流の空が、オレンジ色ににじんでいた。


三十分後、避難指示が出た。


〈落下した衛星から、有毒な燃料が漏れているおそれがあります〉

〈風下にあたる沢渡地区、白萩地区の住民は、共住区・朝霧へ避難してください〉


朝霧、という文字を見て、

わたしは引き出しの奥から、

おばあさまのハンカチを出して、ポケットに入れた。

寮に来てから、怖い夜に一度だけ握ったことがある。

それきり、奥にしまっていたものだった。



バスが止まったのは、朝霧第二小学校の前だった。


わたしの、母校だった。


四年ぶりの校門は、記憶よりずっと低かった。


体育館の入り口の、すのこの段差。

下駄箱の上の、誰も直さない時計。

全部そのままだった。

違うのは、床に光の線が引かれていることだけだった。


バスケットコートのセンターラインのところに、白い線と、

腰の高さまでの光の壁が立っていた。


「女性の方は西側、男性の方は東側にお進みください」


線の向こうに、男子がいた。


沢渡から来たバスの人たちだった。

何百人もいた。


光の壁越しだと、みんな白っぽくぼやけて、

大きな灰色の毛布のかたまりが動いているように見えた。


「……でっか」とサクが言った。


「でかいね」とマルが言った。


殿は、すっと背筋を伸ばした。

いざとなると、ちゃんと殿らしくするらしい。


シッポだけが、毛布をかぶったまま、ずっと東側を見ていた。


まばたきもしないで、光の壁の向こうを、端から端まで、

何度も目でなぞっていた。


「シッポ、どうしたの」


「……なんでもない」


シッポは毛布を鼻の上まで引き上げて、

また東側を目でなぞりはじめた。


家から、メッセージが来た。


朝霧の丘の上の家は、

ここから歩いて二十分くらいのところにある。

でも、避難所から出てはいけないことになっていた。


〈無事ですか〉

〈こちらは何事もありません〉

〈避難所では、皆さまのご迷惑にならぬよう〉

〈怖いときは、いつものを〉


おばあさまだった。


おばあさまのメッセージは、

ばあやに一度も止められたことがない。

止められるようなことを、一度も書かないからだと思う。


〈はい〉とだけ返した。


父からは、何も来なかった。


今夜、父の会社は、たぶん街じゅうでいちばん忙しい。

わたしたちを運んだバスも、

床に引かれた白い線も、

どこかで、父の会社につながっている。


線の向こうの灰色の毛布の山を、わたしはもう一度見た。



電気が消えたのは、二時四十分ごろだった。


天井の照明が消えて、床の線が消えて、光の壁が消えた。


それから、本当に、何も見えなくなった。


暗闇は、目を閉じたときの暗さとは違った。


目を開けているのに、自分の手がどこにあるのかもわからない。

体育館が急に何倍も広くなった気がして、

毛布の端をつかんでいないと、

自分の体の輪郭まで溶けてしまいそうだった。


手首が一斉に震えて、何百もの青い光が一瞬だけ散って、消えた。


〈端末の照明は使用しないでください〉


どこかで子どもが泣き出した。


わたしは、壁ぎわまで這っていって、背中をつけた。


壁は冷たかった。

でも、何かに背中をつけていないと、怖かった。


いつもの、を唱えた。


「ゆく河の流れは絶えずして」


そこで、止まった。


いつもそうだ。

最初の一文は言えるのに、その先が、どうしても出てこない。

子どものころは毎朝、今は帰るたびに、

おばあさまの前で読まされて、毎回ここでつかえる。

そのたびに、「もう一度」と言われる。


「……ゆく河の流れは絶えずして」


何度言っても、続きは出てこなかった。


小さく息を吸って、もう一度。


「ゆく河の流れは絶えずして」


「しかも、もとの水にあらず」


すぐ近くで、声がした。


低い声だった。

少しかすれていて、父の声とも、警報の声とも違った。


男の人の、声だった。


機械じゃない男の声を、こんなに近くで聞くのは、

四年ぶりだった。

どうしよう、と思って、

何をどうしようなのか、自分でもわからなかった。


心臓が、耳の中で鳴った。


声のしたほうを向いたけれど、何も見えなかった。


「……誰?」


「すみません。トイレを探してて」


トイレ。


この体育館のトイレは、舞台の脇にある。

舞台は北側。

わたしがいるのは、西側の、南寄りの壁ぎわだ。


六年間通った体育館だから、目をつぶっていてもわかる。


「トイレは反対側」


ついでに、ここは西側だ、とも教えた。


あの人は、慌てなかった。

そうみたいですね、と、天気の話でもするみたいに言った。


わたしは、笑いそうになった。


笑いそうになったら、耳の中で鳴っていた心臓が、静かになった。


声の感じだと、たぶん同い年くらいだ。

なのにこの人は、最後まで、ずっと敬語だった。

女子なら、同い年とわかった時点で、二言目にはため口になる。


照明も、光の壁も、天井の目も、全部止まっている。

いつもの小さな赤い点が、天井のどこにもなかった。


カメラが止まっていることを、わたしたちは小声で確かめあった。

今夜のこれは、なかったことになる。

二人とも、そういうことにした。


なかったことになるなら、もう少しだけ、

ここにいてもいいのかもしれない。


声の人は、立ち去らなかった。


衣ずれの音がして、壁を背にして座る気配がした。

わたしと、腕一本ぶんくらい離れたところに。


この人は、わたしの顔を知らない。

名前も、どこの家の子なのかも。

知らないまま、隣に座った。

そういう座られ方をしたことがあったか、考えてみて、

ひとつも思い出せなかった。


「なんで続き、知ってるの」


「父親に読まされて。小さいころ、毎晩」


毎晩。


わたしと同じだ。

この世界に、方丈記を毎日読まされている子どもが、

わたしのほかにもいたのだ。


わたしは、おばあさまのことと、唱えるわけを話した。

最初の一文から先は毎回忘れる、と白状したら、

あの人は、女子なら絶対言わない遠慮のなさで、

そこを突いてきた。


今度は、本当に笑ってしまった。


暗闇の向こうで、相手が口を押さえる気配がした。

向こうも笑っていた。


「男の街って、どんな感じ?」


自分でも、なんでそんなことを聞いたのかわからない。


あの人は、保健室の先生と、冬でも裸の男子の話をした。


声を殺して笑った。

笑いすぎて、肩が震えた。


男子居住区の同い年の男子のことを、

わたしたちはほとんど何も知らない。

もっとこう、全員がいつも汗をかいて、

大声で何かを叫んでいるような場所だと思っていた。


実際、そうなのかもしれない。

でも、この人の言い方で聞くと、全然違うものに聞こえた。


お返しに、わたしは、スカートの下のジャージの話をした。

そこから先、自分が何を聞いたのかは、思い出したくない。


サクに知られたら、卒業まで言われる。


「上、見て」


さっきから、ずっと気になっていた。


体育館の高窓の向こうが、こんなに明るいのを、

わたしは見たことがなかった。


星だった。


町じゅうの明かりが消えて、空だけが残っていた。

窓の四角いっぱいに、細かい光が、

砂をまいたみたいにびっしり散らばっていた。


その星のあいだを、細い光が、すっと横切った。


衛星のかけらです、とあの人が言った。

〈かささぎ〉が、降りてくる途中で割れたから、と。


「じゃあ、お願いしても叶わないね」


「どうですかね」


どうですかね、と言われたので、わたしはお願いすることにした。


光の筋は、何分かおきに流れた。


一本流れるたびに、わたしは小さく息を吸って、

同じことをお願いした。


ばあやに聞かれたら、たぶん止められる種類のお願いだった。

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