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うますぎて腹が立つ

女子寮の朝は、ドライヤーの奪い合いから始まる。


洗面所のコンセントは六つ。

二階の住人は二十三人。


計算が合わないのは入寮初日からわかっていたことで、

だから二階では、六時四十分を過ぎると戦争になる。


「マル、それ何分使ってんの」


「まだ二分」


「二分で前髪しか乾いてないのはおかしいでしょ」


サクの声は、朝でも廊下の端まで届く。


九条さくら。

名前だけなら、どこかの宮家のお姫さまみたいだ。

本人は、寝ぐせを片手で押さえつけたまま、

もう片方の手で歯ブラシをくわえて、

マルの手元のドライヤーを狙っている。


わたしは、その横で、鏡越しに自分の顔を見ていた。


家にいるときのわたしは、

こういうふうに寝ぐせのまま洗面所に立ったりしない。

朝ごはんの前に方丈記を読んで、髪を整えて、

背筋を伸ばして「おはようございます」と言う。


ここでは誰も、そんなことをしない。


四年前、白萩の寮に来た最初の朝、

わたしだけが制服のリボンをきっちり結んで廊下に出て、

上級生に「どこの面接?」と笑われた。


今では、わたしもスカートの下にジャージをはいている。


名前も、ここでは二文字で足りる。

家では、おばあさまが、下の名前を一字も省かずに呼ぶ。

お客さまの前では、その上に名字がのる。

寮のアヤは、家のわたしより、声がひとつぶん大きい。


「アヤ、ドライヤー終わったら回して」


「わたし、もう自然乾燥でいい」


「出た。お嬢さまの自然乾燥」


「お嬢さまは自然乾燥しないでしょ」


マルがドライヤーを止めて、

ふわふわになった前髪を満足そうに撫でた。

丸山円。

苗字も名前も丸くて、顔も声も丸くて、いつも何か食べている。

今も、口の端にビスケットのかけらがついている。



昇降口の電光掲示板には、毎朝、世界の人口が出ている。


七十九億六千百十九万八千七百二人。


見上げる子は、ほとんどいない。


教室に入ると、窓際の席に、もう殿がいた。


織田希。

背が高くて、髪が短くて、

立っているだけで廊下の一年生が二、三人ふり返る。

机の中から、今日も封筒が三通出てきた。

全部、下級生からだ。


「今日もモテてるね、殿」


「殿って言うな」


殿は封筒をまとめて鞄にしまいながら、本気で嫌そうな顔をした。


一年の春、図書室の司書さんが、

名簿を見て、

「織田さん。昔ね、織田信長っていう、ものすごく有名な殿さまがいたのよ」

と言ったことがある。

図書室の奥で古い本の修理をしている、白髪のおばあさんだ。


「誰ですか、それ」とサクが聞いた。


「天下を取りかけた人」


司書さんはそれだけ言って、修理の続きに戻ってしまった。


天下が何なのか、取りかけるとどうなるのか、

わたしたちは誰も知らない。

手首端末で調べても、

名前と生まれた年くらいしか出てこなかった。

それでもサクが言いふらして、その週のうちに、希は殿になった。


シッポは、いつものように一番後ろの席で、窓の外を見ていた。


七尾舞。

七尾だから、尻尾が七本で、シッポ。

言い出したのはサクだ。

シッポはあまりしゃべらない。

いつも何を考えているのかわからないけれど、

朝いちばんに来て、一番最後に帰る。



昼休みに、サクが机をくっつけてきた。


「ねえ、ちょっと。これ見て。アヤ、読んで」


サクの左の手首が光って、手の甲の上に便箋が浮かんだ。


差出人は、金城大吾。


「誰」


「小学校のとき同じクラスだった、柔道の。首が太いやつ」


「首の情報いる?」


「いる。首しか覚えてない」


マルが購買の牛乳プリンを机に並べはじめた。

牛乳はやたら安いので、購買のプリンは三十円だ。

マルは毎日四つ買う。

一つは自分の、一つは自分の、一つは自分の、

一つはその日いちばん困っている人の分。


四つめのカップは、サクの前に置かれた。


わたしは、サクの手首の上の文字を読んだ。


  さくらへ

  元気ですか。

  俺は元気です。

  沢渡は、桜がまだです。

  小学校の鉄棒のところの桜は、今年も咲くのでしょうか。

  あれが咲くと卒業式だったので、俺はいまでも、

  あの木を思い出すと何か言い忘れている気がします。

  柔道は初段になりました。


一回読んで、もう一回読んだ。


「……サク。卒業式の日、鉄棒の桜の下で、何かあった?」


サクの顔が、ゆっくり赤くなった。


「……なんで」


「『鉄棒のところの』って、わざわざ場所を書いてる。桜の話がしたいだけなら、場所はいらない」


「……卒業式のあと、金城が鉄棒のとこにいて。なんか言いかけて、やめた」


「それだよ」


「それ?」


「『何か言い忘れている気がします』。言いかけて、やめたことを、まだ覚えてるってこと」


マルが、ふたを開けかけた手を止めた。


殿が身を乗り出した。


シッポまで、一番後ろの席から、顔だけこっちに向けていた。


「え、待って、これ告白?」


「告白の、手前の手前」


「手前の手前って何」


「『好き』って書いたら、ばあやに止められるでしょ」


ばあや、というのは、手紙の検閲AIのことだ。


正式な名前は、漢字が十個くらい並ぶ長いものらしいけれど、

そんな名前で呼ぶ人はいない。

頼んでもいないのに手紙に口を出してきて、

気に入らない言葉があると送らせてくれない。

昔のお屋敷で、

お嬢さまの恋文を先に読んでいた世話係みたいだから、ばあや。


男子居住区で何と呼ばれているのかは、知らない。

ニュースで見る向こうの街は、いつも大人の顔をしていて、

同い年の男子の暮らしや言葉は、ほとんど伝わってこない。


殿が、急に背筋を伸ばして、しわがれた声を出した。


「お嬢さま。はしたのうございます」


ばあやの物まねは、殿が学年でいちばんうまい。

顔がきれいなぶん、余計におかしい。

マルがプリンを吹きそうになって、口を押さえた。


「でもさ」とわたしは言った。


「これ、たぶん本人が書いてない」


「えっ」


「サク、金城くんって、こういう文章を書く人?」


サクは少し考えて、首を横に振った。


「六年のときの作文、『うんどうかいは、たのしかったです』で終わってた」


「でしょ」


「たぶん、書いたのは大人の人。お兄さんとか、親戚とか」


「金城、お兄ちゃんいたかも」とサクが言った。


「でもさ、最後の『柔道は初段になりました』は、ぽいよ。すごく金城っぽい」


「そこなんだよ」


わたしは便箋のいちばん下を指さした。


「最後の一行だけ、急に下手なの。たぶん、わざと。

全部うまいと本人じゃないってばれるから、

最後だけ本人の書き方に寄せてる」


四人の目が、便箋の最後の一行に集まった。


「……じゃあさ」と殿が言った。「これ、気持ちは誰のなの」


「どういうこと」


「書いたのが別の人なら、これ、代筆の人の気持ちじゃん。金城くん本人の気持ちって、どこにあるの」


マルがスプーンをくわえたまま、ぼそっと言った。


「最後の一行だけ本人なんでしょ。じゃあ本人の気持ちは『柔道は初段になりました』だけってことじゃない?」


「やめて」とサクが言った。


「初段になったことを、どうしても伝えたかった男」


殿が、低い声でナレーションみたいに付け足した。


「やめてってば」


サクが机をばんと叩いて、牛乳プリンが三つ同時に跳ねた。

マルは自分のぶんだけ素早く押さえた。


「で、サクはどうなの。好きなの、嫌いなの、どうでもいいの」


「三択の最後が一番ありそう」と殿。


「うるさい。首しか覚えてないって言ったでしょ」


「首しか覚えてないのに、顔赤いけど」


サクは自分の分のプリンを一口で食べて、空のカップを置いた。


「……アヤってさ」


「なに」


「人の手紙だと、ほんと容赦ないよね」


笑いながら言ったけれど、スプーンはカップの底を回っていた。


「鉄棒のこと、誰にも言ってなかったのに」


「……ごめん」


「いいけど」


いいけど、で、その話は終わった。


人の手紙なら、いくらでも読める。

わたし宛ての手紙は、四年間で一通も来ていない。

読み解き係のところには、読むものしか届かない。


「……でも、代筆にしたって、誰がそこまでやるの」


「わかんない。でも、この人、うまい」


うますぎて、ちょっと腹が立つくらいだった。


言いたいことを一言も書かないで、全部わかるように書いてある。

桜と、鉄棒と、卒業式だけで。


「アヤ、なんか悔しそうじゃない?」


「悔しくない」


「悔しそう」


「マル、プリン一個ちょうだい」


「今日のいちばん困ってる人はサクだから、だめ」

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