うたかた
遠くで、何かが破裂した。
音というより、空気の塊だった。
体育館の高窓が一斉にびりびりと震え、
天井から細かい埃が降ってきた。
手首端末が震えて、暗闇じゅうに青い光が散った。
〈回収場で燃料タンクの……〉
表示を読み終わる前に、体育館じゅうで悲鳴が上がった。
何人もが、いっぺんに立ち上がった。
床が鳴った。
暗闇の中で足音が散り、毛布を踏む音と、子どもの泣き声と、
「動かないで」と叫ぶ大人の声が重なった。
すぐ横で、相手も立ち上がった。
立ち上がって、どこかへ行こうとした。
友達のところへ戻ろうとしたのだろう。
「待って、暗い——」
言い終わる前に、相手の足が、床の毛布に引っかかった。
体が前に傾く気配がした。
その先に何があるのか、俺は知っていた。
壁ぞいの、体育倉庫の鉄の扉だ。
重くて、角が直角に尖っていて、小学生のころ、
先生に何度も「そこで遊ぶな」と言われた扉だ。
考えるより先に、手を伸ばしていた。
指が何かをつかんだ。
たぶん腕だった。
細かった。
思いきり引いた。
でも、引ききれなかった。
相手の体は半分こっちに戻りながら、半分は前に倒れていく。
俺は、空いているほうの右手を、相手の頭と、
扉のあいだに突っこんだ。
手の甲に、硬いものがぶつかった。
鈍い音がして、そのあと、皮膚の上を何かが、ざり、と滑った。
二人まとめて、床に崩れた。
熱い。
痛いより先に、熱かった。
腕の中に、相手の頭があった。
耳のすぐそばで、相手が息を止めているのがわかった。
髪の匂いがした。
体育館の埃の匂いとは違う、知らない匂いだった。
腕の中に女子の頭がある、という事実を、
俺の頭は、うまく処理できなかった。
処理できないまま、手の甲だけが熱かった。
まわりでは、まだざわめきが続いていた。
体育館の外で、
防災放送のスピーカーが、
「燃料の処理です。危険はありません」と繰り返していた。
手首端末の表示の続きも、たぶんそういうことだったのだろう。
足音が少しずつ静まって、泣いていた子どもの声も、
だんだん小さくなっていった。
腕の中の人が、小さい声で言った。
「……大丈夫?」
「そっちこそ」
「わたしは平気。……ねえ、手」
言われて初めて、右手がじんじんしているのに気づいた。
指でさわると、ぬるっとした。
手の甲の皮が、扉の角で、
斜めにざっくり裂けているのがわかった。
「動かさないで。けがしてる」
相手は暗闇の中で俺の手首を探り当てると、
傷の上から何かをかぶせた。
布だった。
その上を両手でぎゅっと押さえて、
血が止まるまで離さなかった。
端を手首のほうへ回して、きつく結んだ。
見えていないのに、手つきに迷いがなかった。
結び目を作るとき、布の端に、
指でなぞるとわかる小さな凹凸があった。
刺繍だ。
「すみません。汚れますよ、これ」
「いいの。いっぱいあるから」
いっぱいある、という言い方が、なんだかおかしかった。
ハンカチがいっぱいある家というのが、
俺にはうまく想像できなかった。
結び終えても、相手の手は、俺の手の上から離れなかった。
冷たい手だった。
少し、震えていた。
「……名前、聞いてもいい?」
俺は少し考えた。
名前を知ったら、明日からその名前を探してしまう。
見つからないものを探すのは、こわい。
「聞いたら、なかったことにならなくなりますよ」
暗闇の中で、何かを飲み込むような間があった。
「……そうだね」
暗闇の向こうで、短い間があった。
「でも、呼び方がないと困らない? もし、あとで何か書くことがあったら」
何か書くことがあったら、と相手は言った。
何を、どこに、とは言わなかった。
「じゃあ、仮名で」
「仮名?」
「検閲に引っかからないやつ。どこにでもある名前」
「たとえば」
「佐藤とか」
「じゃあ、そっちが佐藤くんね」
暗闇なのに、相手の声が、目に見えて悔しそうになった。
「そっちは」
「鈴木」と相手はすぐに言った。「二番目に多いから」
「なんで二番目なんですか」
「一番は取られたから」
暗闇の中で、相手がまた少し笑った。
鈴木さん、と俺は頭の中で言ってみた。
うちのクラスにも鈴木は二人いる。
どっちの顔も、まったく浮かばなかった。
電気が戻ったのは、突然だった。
天井の照明が、一斉についた。
二時間暗闇にいた目には、それは光というより、音みたいだった。
何も見えなかった。
視界が真っ白に焼けて、自分の手さえ見えなかった。
床に光の線が走り、光の壁が立ち上がる、低い唸りがした。
スピーカーが「男性の方は東側へお戻りください」と言った。
手首が震えた。
画面を見なくても、内容はわかった。
〈区画外にいます〉
〈ただちに移動してください〉
名指しだった。
白い視界のすぐそばで、誰かが立ち上がった。
「よどみに浮かぶうたかたは」と、その人が言った。
「かつ消え」
方丈記の、最初の一文の続きだった。
毎回忘れると言っていた、その先だった。
川のよどみに浮かぶ泡は、消えたかと思えば、
またどこかで結んで、
ずっと同じ形でとどまっていることはない。
意味は、教わっていない。
何百回も声に出すうちに、
たぶんそういうことだろう、と思うようになった。
続きはわかっていた。
かつ結びて。
でも口を開いたときには、もう寮監が俺の腕をつかんでいた。
スピーカーがもう一度同じことを言っていて、
俺は光の壁をすり抜けて、東側へ引き戻されていった。
目が慣れたころには、西側には何百人もの女子がいて、
みんな同じ灰色の毛布をかぶっていた。
どれがあの人なのか、わからなかった。




