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しかも、もとの水にあらず

電気が消えたのは、二時四十分ごろだった。


最初に天井の照明が消えて、そのあとに床の線が消えた。


光の壁も消えた。


目の奥に白い線の残像が一瞬だけ残って、それから、

本当に何も見えなくなった。


ざわめきが起きた。


どこかで子どもが泣き出した。

念のためにと来た、朝霧の小さい子のいる家族も何組かいた。

スピーカーが何か言いかけて、途中で止まった。


手首端末が一斉に震えた。

何百もの手首が、暗闇の中で同時に青く光って、すぐに消えた。


〈送電設備から衛星の残骸を撤去するため、広域の送電を停止しています〉

〈予備電力は医療施設と通信網に優先して配分しています〉

〈復旧の見込みは約二時間後です〉

〈その場から動かないでください〉

〈端末の照明は使用しないでください〉


つまり照明と、床の仕切りと、天井の監視カメラは、

後回しにされたらしい。


AIは、俺たちの仕切りより、どこかの病院の呼吸器を選んだ。


正しいと思う。


正しいと思いながら、俺は、

十二で沢渡に来てから初めて、

仕切りのない場所にいるのだと気づいた。


それから、トイレに行きたくなった。


動くなと言われると行きたくなるのは、人間の仕様だと思う。

我慢できたのは二十分くらいだった。

俺は七尾に「トイレ」とだけ言って、壁に手をついて歩き出した。


暗闇というのは、目を閉じているのとは違う。


目を開けているのに何も見えないと、

耳と手のひらが勝手に大きくなる。

誰かの寝息。

毛布がこすれる音。

床の冷たさ。

壁の、塗装のざらざらした手触り。

ところどころに貼られた、古い掲示物の画鋲。


トイレは舞台の脇にある。

小学生のときの記憶だと、舞台は北側だ。

北に向かって、壁ぞいに歩いているつもりだった。


でも四年ぶりの体育館は、記憶より狭くて、記憶より暗かった。


気がつくと、壁ぞいのすぐ近くで、知らない声がしていた。


小さい声で、何かを唱えている。


「……ゆく河の流れは絶えずして」


古い文章だった。


声は、女のものだった。


俺は、西側に来ていた。


唱えている人は、たぶん、怖いのをごまかしているのだろう。


誰に聞かせるわけでもない声で、同じ一文を言っては黙り、

また最初から言い直している。

続きが出てこないらしかった。


小さく息を吸う音がして、もう一度。


「ゆく河の流れは絶えずして」


俺の口が、勝手に開いた。


「しかも、もとの水にあらず」


声が止まった。


しまった。

答えるつもりはなかった。


方丈記だ。

小さいころ、父に、

意味もわからないまま毎晩声に出して読まされた。

だから最初の一文を聞くと、続きが勝手に出てくる。

くしゃみみたいなものだ。


暗闇の中で、相手がこっちを向いた気配がした。


「……誰?」


「すみません。トイレを探してて」


「トイレは反対側」


「そうですか」


「っていうか、ここ西側」


「そうみたいですね」


どちらも、次の言葉が出てこなかった。


異性と話してはいけない、という法律があるわけではない。

ただ、異性と二人きりで話すには事前の申請が要るし、

話した内容はAIが記録する。


今は、記録するものが何も動いていない。


「……カメラ、止まってるよね」と相手が言った。


「止まってますね」


天井を見上げても、何も見えなかった。

いつもなら小さく光っている監視カメラの赤い点も、

どこにもなかった。


「じゃあこれ、なかったことになるのかな」


「なるんじゃないですか」


「そっか」


相手は少し笑ったようだった。

声だけだと、笑ったのか、ため息をついたのか、

よくわからなかった。


戻らなきゃ、と思った。


思ったまま、俺は壁を背にして座っていた。

足がそういうふうに動いた。


「なんで続き、知ってるの」


「父親に読まされて。小さいころ、毎晩」


「うちはおばあさま。毎朝、朝ごはんの前に。意味なんか教えてくれないの。とにかく声に出しなさいって」


おばあさま、と言った。

普段からそう呼んでいる人の言い方だった。


「怖いときに言ってるんですか」


「あれね、後半、災害の話なんだよ。大火事とか、つむじ風とか、飢饉とか」


「知ってます」


「昔の人も、ひどい目にあってるの。それでも、ちゃんと書き残してる。だから言ってると、なんか、大丈夫な気がする」


「今、どのへんですか」


「最初の一文。そこから先は、毎回忘れる」


「後半の災害まで、全然届いてないじゃないですか」


俺は笑ってしまって、慌てて口を押さえた。


暗闇の向こうでも、相手が笑っているのがわかった。

今度は、ため息ではなかった。


「男の街って、どんな感じ?」


「どんな感じって」


「わかんないけど。なんか、すごそう」


「すごくはないです。保健室の先生が元ラグビー部で、擦り傷は唾つけとけって言われます」


「えっ」


「あと、冬でも上は裸のやつがいます」


「なんで」


「わかんないです。誰も理由を知らないです」


相手は声を殺して笑った。

肩が揺れるのが、すぐ横の空気でわかった。


「女子しかいないとね、みんな、わりとどうでもよくなるよ。スカートの下にジャージはいたまま一日過ごすとか、普通」


「それはこっちも普通です」


「スカートはいてるの?」


「はいてないです」


何を言っているんだろう、俺は。


四年ぶりに話す女子との会話が、ジャージの話だった。

金城に知られたら、寝技をかけられたまま一から説明させられる。


言いたいことを言わないで言うのが、俺の商売のはずだった。

暗闇の中では、その技術が一つも出てこなかった。

出てきたのは、ジャージだった。


「上、見て」と相手が言った。


見上げると、体育館の高窓の向こうに、星があった。


町じゅうの電気が消えているせいだ。

沢渡でも朝霧でも、夜空はいつもぼんやり明るくて、

星なんて数えるほどしか見えない。


それが、窓の四角の中に、こぼしたみたいにびっしりあった。


その星のあいだを、細い光の筋が、すっと横切った。


少しして、もう一本。


「……流れ星?」


「たぶん、衛星のかけらです。降りてくる途中で割れたから」


「〈かささぎ〉、だっけ」


「そうです」


「じゃあ、お願いしても叶わないね」


「どうですかね」


光の筋は、何分かおきに、思い出したように流れた。

一本流れるたびに、相手が小さく息を吸うのがわかった。


かささぎ、という名前で、七夕の話を思い出した。

川で引き離された二人のために、年に一度だけ、

かささぎが橋を架ける話だ。


言わなかった。

言ったら、何か別の意味になってしまいそうだった。


流れ星が三本流れるあいだ、二人で窓を見ていた。


顔も知らない人と、同じ四角を見上げていた。

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