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二人とも尻尾

予選のあと、競技場の家族の席の前に、

光の壁が一か所だけ開くところがあった。


光の壁の前に紺の制服の係の人が立っていた。


「七尾舞さん。続柄、妹。出生区分、超過。

……はい、確認しました。十分間です」


天気予報みたいに平らな声だった。


シッポは「はい」と言って、壁の開いたところへ歩いていった。

カメラの紐を握る指の関節が白くなっていた。


わたしは取材用の柵のところで待っていた。

家族じゃないから、壁の向こうには行けない。


でも、柵のところからは二人が見えた。


声もところどころ聞こえた。



背の高い男子が壁のこちら側に歩いてきた。


近くで見ると、シッポとそっくりだった。


目の形。

口を閉じたときの口の端の形。

何かを言う前に一拍、間を置く癖。


二人は壁の開いたところで向かい合って立った。


どちらも口を開かなかった。


四年分の言葉が、喉の手前で順番待ちをしているみたいだった。


「……舞」


「……剛」


それだけだった。


名前を呼ぶだけで、四年分が届くこともあるらしい。

わたしはあの人の名前を知らない。

あの人も、わたしの名前を知らない。

桐生の、と一度も言われずに隣にいてくれたのは、

あの暗闇の二時間が最初だった。


それだけで、シッポは泣きそうな顔になって、

泣かなかった。


剛、と呼ばれた男子も、

泣きそうな顔になって、泣かなかった。


二人とも、泣くのが下手な顔をしていた。



シッポがカメラを差し出した。


「これ」


剛くんはカメラを受け取って、

画面の写真を一枚ずつめくっていった。


空の写真だった。


全部、空だった。


「……何これ」


「上流の空。

白萩の寮の屋上から、毎日撮ってた」


「毎日?」


「四年間。

沢渡の、お兄ちゃんのいるほう」


剛くんの指が止まった。


「……俺も」


「え」


「俺も、ゴールしたらいつも下流のほう見てた。

白萩のほう」


二人は顔を見合わせた。


それから同時にふき出した。


「ばかみたい」


「ばかだな」



「舞」


剛くんが真面目な声になった。


「俺さ、走ってるのには理由があって」


「……うん」


「いいタイム出したら、十八のとき、

超過の印、帳消しになるって聞いて」


シッポの顔が変わった。


「超過、って」


「俺らの記録の、あれ。

どっちかが数に入ってないやつ」


剛くんは少し下を向いた。


「たぶん、俺のほうが余分なんだと思う。

お前はちゃんと数に入ってる。

だから、俺が数に入れば、

お前は後回しにされないだろ」


「違う」


シッポがすぐに言った。


声がいつもより大きかった。


「違う。余分なのは、わたし。

お兄ちゃんのほうが先に生まれたんだから。

お兄ちゃんが一人目。

わたしが二人目。

二人目が超過」


「それ、誰が決めたんだよ」


「……誰も決めてない」


「じゃあ、俺が余分でもいいだろ」


「よくない」


二人は壁の開いたところで、

四年ぶりに兄妹げんかをしていた。



やがて剛くんがふっと笑った。


「……お前、白萩でなんて呼ばれてる」


「シッポ」


剛くんは一瞬、きょとんとした。


それから声を出して笑った。


「俺も、シッポ」


「知ってる。さっき横断幕に書いてあった」


「七尾だから、尻尾が七本」


「九尾の狐より二本足りない」


「お前もそれ言われたのか」


「言われた」


二人は同じことを言って、同じところで笑った。


それから剛くんが一拍間を置いた。


「……尻尾ってさ。

なくても生きていけるところだろ」


シッポはうなずいた。


「だから俺、このあだ名、ちょっと当たってるなって思ってた。

余分なところ、って意味で」


「わたしも」


シッポはカメラの紐を指に巻きつけた。


「でも、写真部の先輩が言ってた。

動物の尻尾って、走るときにバランスを取るためにあるんだって。

なくても生きていけるけど、

ないと、まっすぐ走れないんだって」


剛くんはシッポの顔をじっと見ていた。


「……じゃあ、あれだ」


剛くんは言った。


「二人とも、尻尾だ」


「うん」


「二人とも余分で……あと、なんだっけ」


「バランス」


「それ。二人ともバランス取ってる」


「うん」


〈面会時間 残り一分〉


二人の手首が同時に光った。


剛くんはカメラをシッポに返した。


「……全国行けたら、また撮りに来い」


「行けたらじゃなくて、行くんでしょ」


「行く」


剛くんは背を向けて、

光の壁の向こうへ戻っていった。


振り返らなかった。


シッポも手を振らなかった。


カメラの紐を指に三回巻いて、三回ほどいた。

四回目は、巻かなかった。



帰りのバスで、シッポはずっと窓の外を見ていた。


膝の上のカメラには、

今日撮った写真が入っていた。


走っている兄の写真が、何十枚も。


空の写真じゃない写真は、四年間で初めてだった。


「アヤ」


「ん」


「今日、ついてきてくれてありがと」


「荷物、持っただけだよ」


「荷物、持ってくれたから撮れた」


窓に映ったシッポの顔が、

笑っていた。


わたしは自分の手首をそっと見た。


競技場で聞いたあの声のことを考えていた。


いいぞ、シッポ。


考えすぎだ、と思う。


沢渡には男子が何千人もいる。


でも、沢渡学園の陸上部の応援に来ていた男子は、

たぶん何十人しかいない。



その夜、寮の布団の中で一通が届いた。


〈佐藤〉


方丈記の、今日の一文。


それから。


  今日は、少し遠くまで出かけました。

  友達が、走るのを見ました。

  とても、まっすぐ走る友達です。


わたしは手首を胸の上に置いて、

天井を見た。


まさか、と思った。


思ったけれど、もう、

前ほど上手には打ち消せなかった。


今日の一通に何を書けばいいのか、

なかなか決まらなかった。


最後にこれだけ書いた。


  こちらも、遠くまで出かけました。

  知らない人の声が、知っている人の声に聞こえた日でした。


<送信可能>


送信して目を閉じた。


まぶたの裏に、

光の線の向こうで、立ったり座ったりしていた、

何十人もの男子の背中が浮かんだ。


その中の、誰か。


かもしれないし、

そうじゃないかもしれない。


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