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しっぽいけ

六月の終わりの土曜日、四か月ぶりに朝霧の空気を吸った。


二月の夜は避難のバスだった。

毛布の匂いと、誰かのすすり泣きと、窓の外の真っ暗。


今日は写真部の取材のバスで、

膝の上の機材の鞄が、カーブのたびにずしっと重い。


窓の外を見覚えのある町並みが流れていった。

小学校のころに通ったパン屋。

角のポスト。

丘の上に向かうゆるい坂道。


あの坂の上にわたしの家がある。


母と、父と、おばあさまがいる。


あの家では、わたしは綾乃と呼ばれる。

玄関で靴をそろえて、背筋を伸ばして、

ただいま帰りました、と言う子だ。


今のわたしはジャージで、髪も寮で適当に結んだままだ。

同じ顔なのに、坂を一本のぼるだけで呼ばれ方が変わる。


母は、見に行こうか、と書いてきた。

来なくていい、と返した。

母が家族の席に座ったら、わたしは、

柵のこちら側で綾乃に戻らなくちゃいけない。

今日だけは、シッポの荷物持ちのアヤでいたかった。


今日は、寄れない。

取材の許可は競技場の中だけだ。


「アヤ、家、このへん?」


隣の席でシッポが聞いた。


「……あの丘の上」


シッポは窓の外の丘を、

バスがカーブを曲がりきるまで見ていた。


「近いのに、行けないんだね」


「行けないね」


シッポは首から提げたカメラを、

膝の上でぎゅっと握っていた。


今日、近いのに行けないのは、わたしだけじゃない。

シッポは、まだ理由を口にしていない。

男子の短距離を、女子の写真部がわざわざ撮りに来る理由を。



朝霧の競技場は広かった。


青いトラックのまわりを、

観客席がぐるりと囲んでいる。


その観客席に光の線が引かれていた。


男子の席。

女子の席。

それから家族の席。


家族の席だけは、男女が一緒に座れる。


光の線を出している柱の根もとに、

小さな青い印が刻んであった。

家紋じゃない。会社の印だ。

父の書斎の封筒にも、同じ印がついている。


わたしたちを分けている仕組みの、どこか一部を、

父の会社が支えている。

父はそれを誇りにしている。

わたしは光の線の、女子の側に立っている。


わたしとシッポは、女子の席のいちばんトラック寄りの、

取材用の柵のところにいた。


〈取材許可:白萩女学院 写真部〉


手首にそう表示が出ていた。


シッポはカメラを構えて、ずっとトラックを見ていた。


わたしはシッポの機材の鞄を抱えて、

観客席を見回していた。



向こう側の、男子の席に、

大きな横断幕を広げている一団がいた。


〈沢渡学園 陸上部〉


その横に、手書きのもう一枚。


〈シッポ いけ〉


わたしは目をこすった。


シッポ、と書いてあった。


「……シッポ」


わたしが言うと、

シッポはカメラから顔を上げた。


それから向こうの横断幕を見た。


シッポの手がカメラの上で止まった。



男子の短距離の予選が始まった。


一組目。

二組目。


三組目のスタートラインに、背の高い男子が並んだとき、

向こう側の男子の席がいっせいに立ち上がった。


「シッポォォォ!」


地鳴りみたいな声だった。


「シッポ、いけぇぇ!」

「尻尾を見せろォ!」

「意味わかんねえよ、それ!」


叫んでいる男子の一団の中に、

首の太い男子が一人、立ったまま腕を組んでいた。


首が、太い。


サクが言っていた。

首しか覚えてない。


首の太い男子なんて、沢渡にはたぶん何十人もいる。



ピストルが鳴った。


背の高い男子が走り出した。


まっすぐだった。


誰とも競っていないみたいな走り方だった。

前も、横も、ゴールも見ていない。

ただまっすぐ、どこかに向かって走っていた。


シッポがシャッターを切った。


一回。

二回。

三回。


シャッターの音がどんどん速くなった。


背の高い男子は一番でゴールした。


テープを切ったあと、その人は空を見上げた。


見上げた先が、わたしたちの寮のある方角だと気づいたのは、

シッポのシャッターの音が止まってからだった。


シッポはカメラを下ろして、

口を押さえていた。


「……シッポ?」


「……お兄ちゃん」


シッポは口を押さえたまま、小さい声で言った。


「あれ、お兄ちゃん。

沢渡でシッポって呼ばれてる」


わたしの口は開いたまま、何の音も出さなかった。


向こうの男子の席で、

誰かがもう一度叫んでいた。


「いいぞ、シッポ!」


わたしは、なぜか声のほうをもう一度見た。


低い声だった。


叫び慣れていない人が、思いきって叫んで、

最後のところでひっくり返った声。


耳の奥のずっと奥のほうで、何かがことんと鳴った。


「トイレを探してて」


あの暗闇で聞いた声と、どこか似ている。

……似ている、気がする。

気がする、だけ。


男子の席は遠かった。


光の線の向こうで、何十人もの男子が立ったり座ったりしていた。


誰の声だったのかは、わからなかった。


そんなはずない、と首を振った。

振ったのに、目は向こうの席から離れなかった。


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