十二時の談話室
七夕の四日前の夜、二階の談話室に毛布が十五枚集まった。
白萩の寮には、昔からの習わしがある。
誰かが十八になる前の夜は、
談話室でみんなで零時を待つ。
いつからあるのかは、誰も知らない。
寮監の先生も知らないふりをする。
消灯の見回りで談話室の前を通っても、
先生はドアの小窓を一度のぞくだけで、
そのまま廊下の向こうへ歩いていく。
その夜は日下部先輩の番だった。
高三で、茶道部の部長。
わたしにお茶の点て方ではなく、
お菓子を残さず食べるこつを教えてくれた人だ。
先輩は談話室のいちばん大きいソファの真ん中に座らされて、
両側から毛布をかけられていた。
七月なのに、毛布だった。
そういう決まりなのだという。
マルは台所で牛乳を温めて、
人数ぶんのカップに分けて持ってきた。
十五杯ぶんの湯気で、談話室の窓が白くなった。
殿は先輩の後ろに立って、肩を揉んでいた。
「殿、うまいね」
「部活で先輩のを揉まされてたので」
殿は殿と呼ばれても、何も訂正しなかった。
今夜は先輩の夜だからだ。
一年生たちは床の毛布の上に固まって、
初めての習わしに目を丸くしていた。
十一時を過ぎたころ、誰かが寮の噂を始めた。
ばあやに弾かれすぎると、結婚を認めてもらえない。
十八の夜に名前が来ない。
この寮の誰もが、一度は聞いたことのある噂だ。
十回で一段階、二十回で一段階。
数字は話す人ごとに違う。
「じゃあ、アヤはハズレ確定だ」
サクが牛乳のカップを持ったまま言った。
「アヤ、たぶん寮でいちばん弾かれてるもん。毎晩、毎晩」
何人かが笑った。
「やめて」
自分の声が、思っていたよりずっと鋭かった。
談話室の笑いが途中で止まった。
止まったまま、どこにも行き場がなかった。
サクの顔から笑いが抜けた。
「……ごめん」
サクはすぐに謝った。
でも、わたしはすぐに「いいよ」と言えなかった。
先輩が毛布の中から言った。
「はいはい、わたしの夜なんだから、わたしの話して」
それで話は先輩のほうへ戻っていった。
戻っていったけれど、
わたしのまわりだけ毛布が少し冷たかった。
わたしは毛布を頭までかぶって、
手首の中の数字を数えてしまった。
二月から何回、ばあやに止められたか。
〈もう一度、会いたいです〉。
〈声が聞きたいです〉。
〈名前を、教えてください〉。
数えはじめると、止まらなかった。
ハズレ確定なんて噂がうそなのは、知っている。
どこで知ったのかは、言えない。
知っているのに数えてしまう自分が、いやだった。
「選定のしくみって、誰が作ってるんですかね」
床の上から一年生が言った。
悪気はどこにもない声だった。
「ハカリでしょ」と誰か。
「ハカリは誰が作ったんですか」
答えられる人はいなかった。
わたしは毛布の中で口を閉じていた。
答えは、知っている。
少なくとも、その一部は。
父の会社の名前をわたしは、
この寮で一度も口にしたことがない。
寮のアヤはそれを知らない子だ。
知らない子のまま、毛布の中にいた。
零時の五分前、先輩がふっと笑った。
「外れたら、どうしよっかなあ」
冗談の声だった。
みんなが冗談として笑えるように、言ってくれた声だった。
わたしはさっきの埋め合わせがしたくて、
毛布から顔を出して言った。
「でも、ハカリの選定は満足度が九割を超えてるって」
先輩はわたしのほうを見た。
「それ、誰の受け売り?」
わたしは答えられなかった。
「みんな言うんだよね、九割って」
先輩は笑ったままだった。
「わたしが残りの一割だったら、
九割の人は何してくれるの」
談話室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
わたしは何か言おうとして、
さっきの一文が自分の声じゃなかったような気がした。
誰かの声を、わたしの口が借りて言っただけのような。
「……ごめん。意地悪言った」
先輩はわたしの頭を、毛布の上から一回たたいた。
「アヤちゃんのせいじゃないよ」
そのほうが、こたえた。
零時。
先輩の手首が短く震えた。
談話室じゅうが息を止めた。
先輩は手首を開いた。
誰にも見えないように、少しだけ自分のほうに傾けて、
画面の上の文字を読んだ。
一回。
二回。
三回。
それから顔を上げた。
「……沢渡の人だって」
談話室が爆発した。
一年生が悲鳴を上げて、
殿が先輩の肩を揉む手を止めて、拍手をした。
サクは放送部の声で「おめでとうございます!」と叫んで、
マルに口をふさがれた。
先輩は笑っていた。
ちゃんと、笑っていた。
「はい、おしまい。寝よ」
先輩は毛布をたたんで立ち上がった。
十五枚の毛布が少しずつ、自分の部屋に戻っていった。
明け方、目が覚めて洗面所に行った。
六つある蛇口の、いちばん端で、先輩が顔を洗っていた。
一回洗って、
タオルで拭いて、
また洗っていた。
わたしに気づいて、先輩は濡れた顔のまま振り返った。
「読み解き係さん」
先輩は手首を開いて、画面をわたしに向けた。
知らない名前だった。
名字と、下の名前と、住んでいる地区。
それが一行ずつ。
「この名前、どんな人だと思う?」
わたしはその文字を見た。
読もうとした。
どこにも何も隠れていなかった。
言わないで言っていることも、
わざと下手にした一行も、なかった。
サクの「桜は、まだです」なら、三通りに読めた。
あの人の六行なら、裏まで読めた。
この名前は、どこから読んでも名前だった。
「……わかりません」
「だよね」
先輩は手首を閉じて、もう一度顔を洗った。
「わたしも」
先輩はタオルを首にかけて、部屋に戻っていった。
わたしは端の蛇口から落ちるしずくを、しばらく見ていた。
朝、歯を磨きに行くと、
わたしの歯ブラシにもう歯みがき粉がのせてあった。
隣の蛇口で、サクが寝ぐせのまま歯を磨いていた。
サクはこっちを見なかった。
わたしもお礼は言わなかった。
歯みがき粉はいつもの倍くらい多かった。
「……多い」
「ミントが余ってたの」
それで、たぶんおしまいだった。
噂は、うそだ。
それは知っている。
それでも、九割と一割のどちらに自分が入るのかは、
誰にもわからない。
十八の夜が来るまで、
誰も教えてくれない。
わたしの十月は、来年だ。




