返事ゼロ
六月の半ば、三日続けて雨が降った。
グラウンドは沼になって、
サッカー部の練習は三日とも中止になった。
三日目の放課後、ユウが俺の部屋のドアを叩いた。
手に焼きそばパンを二個持っていた。
「戸川先生」
ユウが俺を先生と呼ぶのは、めずらしかった。
「一件でいい。
返事が来る書き込みを書いてくれ」
俺はパンを見て、それからユウの顔を見た。
「春休みに、自分で書くって言ったろ」
「言った。だから二か月、自分で書いた。四十件」
ユウはパンを二個、机の上に並べた。
キンさんみたいに、まっすぐには並べなかった。
一個が机の端から半分はみ出していた。
「四十件で、ゼロだぞ。
自分で書くのは、もうやった」
言い返せなかった。
返事が来ない四十件がどれくらい重いのかを、俺は知らない。
俺には毎晩、一通ずつ返事が来ている。
「……何を書いてほしい」
「全部任せる」
ユウのことなら、聞かなくても書ける。
春休みと同じだ。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
寮の廊下には乾かない運動靴の匂いがこもっていた。
俺は手首の上で五行を組んだ。
〈雨の日は、部室で、ボールの空気を入れます〉
〈濡れた芝と、古いすね当ての匂いがします〉
〈先輩が置いていったスパイクが、棚の上で、まだ乾いていません〉
〈誰も練習しない日のボールは、少しだけ、軽い気がします〉
〈晴れたら、またグラウンドに出ます〉
読み返して、悪くないと思った。
悪くないどころか、ここ最近でいちばんうまく書けた。
ユウは黙って読んだ。
読み終わって「すげえな」と言って、自分で送信に触れた。
〈投稿しました〉
一時間で、返信が十二件ついた。
「来た!」
ユウは俺のベッドの上で跳ねた。
ベッドがきしんで、壁の向こうからテツの「うるせえ」が聞こえた。
ユウは跳ねたまま笑っていた。
「すげえ、十二件。十二件だぞ、戸川」
「わかったって」
ユウは一件目を開いた。
声に出して読んだ。
「『部室の匂い、わかります。すてきな文章ですね』」
二件目を開いた。
「『ボールが軽い気がする、のところが好きです』」
三件目。
「『この書き方、好きです。ほかの書き込みも読みたいです』」
四件目のあたりから、ユウの声が小さくなった。
五件目は、声に出さなかった。
六件目まで読んで、ユウは手首の上を指でなぞるのをやめた。
「……ほかの書き込みも読みたいです、だって」
ユウは自分の書き込みの一覧を開いた。
四十件のユウの書き込みが並んでいた。
〈サッカー部です〉
〈今日は二点取りました〉
〈好きな食べ物は焼きそばパンです〉
その上に、俺の五行がひとつだけ浮いていた。
「これ、全部」
ユウは手首を見たまま言った。
「全部、戸川に来た返事だろ」
雨の音が急に大きくなった気がした。
「ユウ」
「いや、いいんだよ。頼んだの、俺だし。
戸川の文章がうまいのも知ってるし」
ユウは十二件のどれにも返事をしないで、手首を閉じた。
それから机の上のパンを一個取って、俺のほうへ戻した。
「返品かよ」
「半額だ」
ユウは残りの一個を持って出ていった。
ドアは静かに閉まった。
ユウが静かにドアを閉めるのを、俺は初めて聞いた。
夕飯の食堂で、ユウは俺の隣に座らなかった。
二つ離れた席で、焼き魚の骨を外していた。
いつもより時間をかけて外していた。
テツが俺とユウを交互に見た。
「お前ら、なんかあった?」
「ない」と俺。
「ない」とユウ。
テツはそれ以上聞かなかった。
聞かないかわりに、自分の唐揚げを一個ずつ、
俺とユウの皿に黙って置いていった。
夕飯のあと、談話室で、
キンさんがポットから麦茶をついでいた。
湯呑みを二つ出して、
一つを俺の前に、一つをユウの前に置いた。
理由は聞かなかった。
ユウはそれを両手で持って、一口飲んだ。
俺も飲んだ。
冷えた麦茶は、厚い焼き物ごしだと、妙な味がした。
「……これで麦茶って、なんだよ」
ユウが言った。
「これしかない」とキンさん。
ユウがちょっとだけ笑った。
その夜、ベッドに寝転がって昼間の五行を読み返した。
うまかった。
うまかったのが、問題だった。
全部うまく書くと、本人じゃないとばれる。
だから最後の一行だけ、本人の声にしておく。
四年間、何百通もそうやって書いてきた。
今日はそれを忘れた。
忘れたのではないのかもしれない。
雨の日の部室の匂いを書いているうちに、
ユウの声のことを考えなくなった。
自分の書きたいように書いていた。
あの五行には、ユウがいなかった。
十二件の返事は、そこにいない誰かに届いていた。
鈴木さんへの一通を書いた。
方丈記の、今日の一文。
それから、その日あったこと。
友達の書き込みを手伝ったことは書かなかった。
雨の匂いのことも書かなかった。
うまく書けそうなことは全部よけた。
残ったのは、俺のことだけだった。
今日は、一日、雨でした。
夕飯の唐揚げが、一個多かったです。
それだけの二行を書くのに、一時間半かかった。
送信前チェック。
<送信可能>
送信して天井を見た。
雨はまだ降っていた。
※
次の日の昼休み、ユウが教室の窓ぎわで手首を開いていた。
のぞくつもりはなかった。
後ろを通ったら見えた。
〈サッカー部です。今日も雨でした〉
それだけの一行だった。
夕方になっても、その一行に返事はつかなかった。
「来ねえな」
ユウは手首を閉じて、伸びをした。
「まあ、こっちのほうが俺だから」
前の日よりは、ましな顔で笑っていた。
ユウとはその日の夕飯から、また普通にしゃべった。
焼き魚の骨の外し方で、テツと張り合っていた。
でも、ユウはそれから一度も、
俺に代筆を頼まなかった。
返したほうのパンは、まだ机の引き出しに入っている。
食べる気にも捨てる気にもならなかった。




