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桜は咲きました

その手紙がサクに届いたのは、六月の雨の日の昼休みだった。


「アヤ。アヤ、アヤ、アヤ」


サクがわたしの名前を四回呼びながら、

教室の後ろから机をくっつけてきた。


マルと殿もすぐに集まってきた。

一番後ろの席で、シッポがノートから顔を上げた。


「来た?」とマル。


「来た」


サクの左の手首の上に便箋が浮かんでいた。


差出人は、金城大吾。


二月の桜の手紙の人だった。


「首の太い人」と殿。


「首の情報、まだいる?」


「いる。首しか覚えてないんでしょ」


「……今はもうちょっと覚えてる」


サクは小さい声で言った。


マルが殿の袖を無言で引っぱった。



わたしはサクの手首の上の文字を読んだ。


  さくらへ

  元気ですか。俺は元気です。

  沢渡の桜は、もう散りました。

  散ったあとの枝に、小さい葉っぱが出ています。

  白萩の桜は、もう咲きましたか。

  まだなら、待ちます。

  二段になりました。


一回読んで、もう一回読んだ。


「……まだなら、待ちます」


マルが一語ずつ繰り返した。


「待ちます、って書いてある」


「書いてあるね」と殿。


「これ、桜を待つの?」


「桜を待つわけないでしょ」と殿。

「桜は勝手に咲くんだから」


「じゃあ、何を待つの」


殿はサクのほうを見た。


マルもサクのほうを見た。


サクは牛乳プリンのふたを開けようとして、

三回指をすべらせた。


「……何」


「サク。これ、返事を待ちますってことだよ」


わたしが言うと、

サクの顔が耳までゆっくり赤くなった。


二月の桜の手紙のときと同じ赤さだった。


「サクが、桜は、まだです、って書いたから」


サクはふたをもう一度すべらせた。


「……やめて」


「やめない。これはすごくいい手紙」


「アヤが言うと本当にいい手紙に聞こえるから、やめて」


「いいなあ、九条さまは」


窓際の席から宮内さんが言った。

風紀係の宮内さんは、掲示板が開いてから、

まだ一件も返事をもらっていない。


「わたし、二か月書きつづけて一件も来ないんだけど」


「……ごめん。うるさかった」とサク。


「うるさいのはいつもだからいい」


宮内さんは手首を閉じた。


「読み解き係さんも、来ない手紙は読み解けないもんね」


笑いながら言っていた。

笑いながらだったから、わたしはうまく笑い返せなかった。


「……わたしは四か月かかったよ」


サクがぼそっと言った。


「四か月かかって、それ?」


宮内さんがやっと、ちゃんと笑った。



「で、最後の一行」と殿が言った。


「二段になりました」


「初段の次だね」とマル。


「前のときも、最後の一行だけ柔道の話だったよね」


「最後の一行が、また本人だ」


わたしはうなずいた。


それから、もう一度手紙を上から読んだ。


二月のときと同じだった。


言いたいことを一言も書いていないのに、

全部わかるように書いてある。


散った桜と、小さい葉っぱと、

まだなら、待ちます。


そして最後の一行だけ、

わざと本人の声に戻してある。


「……これ、また本人が書いてないね」


「わかる?」とサク。


「わかる。二月の手紙と同じ人が書いてる」


「代筆の人?」


「たぶん」


わたしは手紙の一行目から最後の一行まで、

もう一度指でなぞった。


うますぎて、ちょっと腹が立つ。


二月にそう思ったのと同じ文章だった。


でも、今はそれだけじゃなかった。


指の先が、知ってる、と言っていた。

言いたいことの手前で、ふっと止まる感じ。

最後の一行でだけ、声が近くなる感じ。

毎晩布団の中で読んでいる、あの感じ。


※


その夜、布団の中で、

わたしは佐藤くんの一通を、さかのぼって開いた。


数日前に届いていた一通で指が止まった。


〈佐藤〉


方丈記の、その日の一文。


それから、その日あったどうでもいいこと。


  今日は、友達の手紙を手伝いました。

  報酬は、焼きそばパン三個でした。

  三個は、さすがに食べきれませんでした。


焼きそばパン。


あの夜のソースの匂い。


ときどき、二個もらうこともあります。


四月に、あの人はそう書いていた。


買う、ではなく、もらう。


誰に、何のためにもらうのか、

わたしはそのとき聞かなかった。


聞かなかったのは、

聞かれたくないことがわたしにもあるからだ。

どこの誰で、どんな家の子なのか。

あの人は一度もそれを聞いてこない。

だから、わたしも聞かない。

そういう約束をしたわけじゃないけれど。


友達の手紙を手伝って、焼きそばパンをもらう。


それは、代筆というのではないだろうか。



わたしは布団の中で、手首の光を暗くした。


寮の布団は寝返りを打つたびに、ばさ、と鳴る。

家の布団は何をしても音を立てなかった。

音を立てない布団の中で、

こんなに心臓がうるさかったことは一度もない。


まさか、と思った。


沢渡には男子が何千人もいる。

パンを食べる男子も、何千人も。

友達の手紙を手伝う男子だって、一人じゃないかもしれない。


かもしれない、けど。


サクの手紙が届いたのは今日。

男子の街の検閲とばあやを通って、何日もかかって届く。

だから、書かれたのは何日か前。

佐藤くんが友達の手紙を手伝ったのは五日前。


……合っちゃう。

日にちが、合っちゃう。


打ち消すたびに、心臓の音が布団の中で大きくなった。



向かいのベッドでサクが手首を開いていた。


布団の中から緑の光がぼんやり漏れている。


返事を書いているのだ。


「……サク」


「何」


「返事、何て書くの」


「言わない」


「見せて」


「見せない」


サクの布団がもぞりと動いて、止まった。


それからサクの手首の光がふっと消えた。


「……送った」


「何て送ったの」


サクは布団をかぶったまま、

布団に向かって言った。


「桜は、咲きました」


わたしは布団から跳ね起きた。


「サク」


「何」


「それ、すごいこと書いたよ」


「嘘は書いてない。白萩の桜は四月にとっくに咲いた」


「とっくに咲いて、とっくに散ってるでしょ」


「咲いたことには変わりない」


布団の中でサクがもぞもぞと丸くなった。


「……ばあや、通した」


「通すよ。桜の話なんだから」


「桜の話だからね」


「桜の話」


暗い部屋の中で、二人の笑い声が布団にこもった。


桜は、まだです、と書いた人が、

桜は、咲きました、と書いた。


それがばあやの前を、

ただの桜の話として通っていった。


※


次の日の放課後、写真部の部室の前でシッポに呼び止められた。


「アヤ。お願いがある」


シッポが自分から頼みごとをするのを、

わたしは初めて見た。


「何」


「六月の終わりに、陸上の全国予選がある。

男子の短距離」


シッポは首から提げたカメラの紐を、

ぎゅっと握っていた。


「写真部で取材の申請をした。

会場は朝霧の競技場。共住区だから行ける。

でも、一人じゃ撮りきれない」


「……手伝ってほしいの?」


「うん。荷物を持つだけでいい」


シッポは下を向いた。


「男子の全国予選を、

女子の写真部が取材に行くのって、変かな」


「変じゃないよ」


わたしはシッポのカメラを見た。


毎日、上流の空ばかり撮っている古いカメラだった。


「行く。荷物、持つ」


シッポは顔を上げて、笑った。

笑った、とわかるくらいには。


シッポの笑った顔を、わたしはほとんど思い出せない。

四年間、同じ寮にいたのに。


※


その夜の一通は、

書く前から決まっていた。


方丈記の今日の一文のことを聞いて、

それから。


  今日は、雨でした。

  友達のところに、桜の手紙が届きました。

  桜は、咲いたそうです。


送信前チェック。


<送信可能>


送信して手首を閉じた。


これでもし、あの人が、

サクの手紙の代筆の人だったなら。


桜は、咲いたそうです。


その一行の意味が、きっとわかる。


わからなかったら、

それはただの桜の話だ。


どちらでもよかった。


どちらでもいいと思いながら、

わたしはその夜、

いつもよりずっと長く眠れなかった。


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