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二段

六月の最初の日曜日、キンさんの昇段審査があった。


会場は沢渡の武道館だった。

古い建物で、畳の匂いと、汗の匂いと、

なぜか、かすかに線香の匂いがした。


観覧席の一番前に俺とユウとテツが並んで座っていた。


シッポは来ていなかった。

六月の全国予選に向けて、朝から陸上部の練習に出ている。


「キンさん、緊張してんのかな」


ユウが畳の上で準備運動をしているキンさんを見ながら言った。


キンさんは首をゆっくり回していた。

右に一回。

左に一回。

それから正座して、目を閉じた。


「してねえだろ。あれ、いつもの顔だぞ」とテツ。


「いつもの顔で緊張してるかもしれないだろ」


「キンさんの緊張なんて誰も見たことねえよ」


言われてみれば、見たことがない。


入寮初日の夜、泣きじゃくる同級生たちの真ん中で、

緑茶をすすっていた十二歳は、

四年たっても表情の在庫を一つしか持っていない。

昇段審査の畳の上でも、その一つで足りているらしかった。



審査は形と試合だった。


形は俺にはよくわからなかった。

キンさんと相手の人が決まった順番で、

投げたり投げられたりしていた。

きれいだったということだけはわかった。


試合は三人と続けて当たる。


一人目は開始十秒で終わった。

キンさんが相手の襟をつかんだと思ったら、

相手はもう畳の上に仰向けになっていた。


「はや」とユウ。


二人目は少し長かった。

相手はキンさんより一回り大きかった。

組んだまま、二人ともほとんど動かなかった。


一分。

二分。


テツが観覧席の手すりを握りしめている。


「キンさん、いけぇぇ!」


審判の先生ににらまれた。


三分目に、キンさんがふっと腰を落とした。


次の瞬間、大きいほうの相手が、

キンさんの背中の上でゆっくり一回転していた。


畳がどんと鳴った。


三人目は引き分けだった。

それでも審判の先生たちは手首の上で何かを確かめあって、

最後にうなずいた。


「金城大吾。二段、合格」


テツが観覧席から立ち上がって叫んだ。

審判の先生にもう一度にらまれた。


キンさんは畳の上で深く一礼した。


顔はいつもの顔だった。


ただ、礼から顔を上げたとき、

ほんの一瞬だけ口の端が上がっていた。


キンさんが笑うのを俺は四年間で、

たぶん三回くらいしか見たことがない。


※


その夜、寮の俺の部屋のドアを誰かがノックした。


開けるとキンさんが立っていた。


両手に購買の焼きそばパンを三つ持っている。


「戸川先生」


キンさんが俺を先生と呼んだ。


「頼む」


四か月前の、二月の昇降口の朝と同じ言葉だった。



キンさんは俺のベッドの上に正座した。

三つを机の上にきちんと一列に並べた。


「三つ?」


「二段だからな」


意味はよくわからなかったけれど、

キンさんの中では筋が通っているらしかった。


「九条に、もう一通書きたい」


「書けばいいだろ。一日一通なら、毎日だって送れる」


二月、キンさんは九条さくらにすぐ返事を出そうとして、

「会いに行きます」でアラタメに止められた。

それから一通も書いていない。


「送れた。でも、二段を取るまでは書かないって決めてた」


キンさんは机の上のパンの列を、指で少しまっすぐにした。


「九条の返事、『桜は、まだです』だったろ。

俺は初段じゃまだだって意味だと思った。

だから二段を取った」


俺は返事に詰まった。


あれはそういう意味じゃない。


シッポがあの夜に言った。

さくらって名前だよな、と。


それなら、桜は、まだです、は、

さくらは、まだ、とも読める。

まだ誰のものでもない。

これから咲くかもしれない。


あれから俺はそう考えるようになった。


誤読だと指摘するのは簡単だった。

だが、その誤読のためにキンさんは三か月、

畳に背中を打ちつけてきたのだ。


誤読から二段が生まれることもある。

文学史には、たぶん載らないけれど。


少なくとも俺には、それを訂正する度胸がなかった。


「……わかった」


俺は手首を開いた。



二月の朝、昇降口で同じことを頼まれたときと、

今とでは、書き方がわずかにずれていた。


毎晩、一日一通を書いている。

毎晩、アラタメの網に引っかかっては遠回りの道を探している。

返事を待つ一日がどれほど間延びするものかも、もう知っている。


だから、今のキンさんが、

本当は何を言いたいのかが前よりよくわかった。


会いたい、ではない。

好きだ、でもない。


待っている、だ。


  さくらへ

  元気ですか。俺は元気です。

  沢渡の桜は、もう散りました。

  散ったあとの枝に、小さい葉っぱが出ています。

  白萩の桜は、もう咲きましたか。

  まだなら、待ちます。


そこまで書いてキンさんに見せた。


キンさんは手首の上の文字を、唇だけ動かして読んだ。


三回読んだ。


それから言った。


「最後に、一行足してくれ」


「何て」


「二段になりました」


俺は少し笑った。


二月は、柔道は初段になりました、だった。


全部うまく書いてしまうと、本人じゃないとばれる。

最後の一行だけ本人の声にしておく。

それが代筆屋のやり方だ。


四年間、何百通もそうやって書いてきた。

他人の言葉なら、いくらでもうまく書ける。

うまく書けるのはたぶん、

それが俺の言葉じゃないからだ。


でも今度は、

キンさんが自分からその一行を言った。


  二段になりました。


送信前チェック。


<送信可能>


キンさんは手首の上の緑の文字を、

息を一つ吐くあいだ見つめてから、

自分で送信に触れた。


〈送信しました〉


それからベッドの上で、もう一度深く一礼した。


畳の上の礼と同じ角度だった。


「……キンさん、ここ畳じゃない」


「知ってる」


キンさんはパン三つを俺の机に残して、

自分の部屋に帰っていった。



キンさんが帰ったあと、俺はいつものように、

鈴木さんへの一通を書いた。


方丈記の、今日の一文。


それから、その日あったどうでもいいこと。


今日のどうでもいいことは、すぐに決まった。


すぐに決まるのは、どうでもいいことのほうだけだ。

キンさんの一通は十五分で書けた。

この一通は、書けない部分を書かずにおくのに、

毎晩一時間かかる。


しかも差出人の欄には、佐藤と出る。

四年間、自分の手紙を一通も書かなかった代筆屋は、

やっと書きはじめた自分の手紙を、

自分のものではない名前で出している。


書きながら、キンさんのパンを一個食べた。

二個目も食べた。

三個目には手が伸びなかった。


  今日は、友達の手紙を手伝いました。

  報酬は、焼きそばパン三個でした。

  三個は、さすがに食べきれませんでした。


送信前チェック。


<送信可能>


送信して机の上を見た。


パンがまだ一個残っていた。


キンさんの二段ぶんの、三個目だった。


明日の朝ごはんに回すことにした。


※


次の日の夕方、寮の台所でテツが鶏むね肉を焼いていた。


フライパンの前で、手首の上の長い文章を、

一行ずつ指でなぞりながら焼いていた。


〈牛乳プリン〉からの、焼き方の説明だった。


「塩をふって二十分置く。

フライパンは弱火。

ふたをして片面五分。

ひっくり返したら火を止めて、ふたをしたまま十分」


テツはそれを声に出して読みながら、

本当にふたをしたまま十分、フライパンの前で直立していた。


「テツ、何してんの」とユウ。


「待ってる」


「何を」


「鶏むね肉がしっとりするのを」


十分後、テツが切った鶏むね肉は、

本当にしっとりしていた。


一切れ俺の口に押しこまれた。


「……うまい」


「だろ!」


テツは自分でも一切れ食べて、目を閉じた。


「パサパサじゃない……」


「お前、今まで何食ってたんだよ」


「パサパサの、鶏むね肉」


テツはその場で手首を開いて、

お礼の一通を書きはじめた。


  しっとり焼けました。

  鶏むね肉が、こんなにうまいと知りませんでした。

  筋肉も、たぶん喜んでいます。


「筋肉は喜ばねえだろ」とユウ。


「喜ぶんだよ」


「お前らはいいよな」


ユウがフライパンをのぞきこんだまま言った。


「テツには鶏むね肉の人がいて、キンさんには桜の人がいて」


「お前にもいるだろ、お姉さま」


テツは笑ったけれど、ユウは笑わなかった。


「俺、二か月で四十件書いて、返事ゼロだぞ。

ゼロって、一回も、だぞ」


「好きな食べ物とか書くからだよ」


「書かなくてもゼロだったよ」


換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえた。

俺は左の手首を、右手でなんとなく覆った。


ユウはテツの皿から鶏むね肉を一切れつまんで、口に入れた。


「……うまいのが、腹立つ」


テツは一日一通の枠を、まるごと鶏むね肉のお礼に使った。


〈牛乳プリン〉が、どこの誰なのかは、

テツはまだ知らない。



鈴木さんとの一日一通とちがって、

居住区をまたぐ手紙は、届くまでに何日もかかる。

九条さくらの返事が来るのは、そのまた何日も先だ。


来ても来なくても、キンさんの顔はたぶん変わらない。


でも、来たらいい。

代筆屋の祈りにたいした効き目はないが。


待っている時間まで含めて、手紙なのだとしたら、

キンさんの手紙は今、ちょうど真ん中にいる。


待ちます、にはたぶん期限がある。


十八の朝、キンさんの手首にも、

九条さくらの手首にも、誰かの名前が届く。


俺はそこで考えるのをやめた。


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