応援合戦
女子校の体育祭は、本気だ。
五月の終わりの日曜日、白萩の空はよく晴れていた。
朝の六時から寮の洗面所は戦場だった。
石けんと、ヘアオイルと、誰かの歯みがき粉のミントが、
湯気の中でぜんぶまざっている。
家の洗面所はいつもひのきの匂いがして、しんとしていた。
ここではハチマキの結び方と、前髪の高さと、
ほっぺたに引く赤の太さで、戦争が起きる。
わたしはこっちの戦争のほうが、だいぶ好きだ。
「マル、赤、太すぎない?」
「応援だから、太いほうがいい」
「太すぎて、ほっぺたが燃えてるみたい」
「燃えてるくらいがいい」
マルは自分のほっぺたにも、太い赤を二本引いていた。
グラウンドに出ると、スピーカーから放送が流れた。
「ただいまより、第五十四回、白萩女学院体育祭を開会いたします」
低くて落ち着いた男の声だった。
この街で聞く男の声は、だいたい機械のものだ。
それでもその声は、おなかの底のほうにずんと響いた。
グラウンドじゅうの女子が、いっせいに小さく悲鳴を上げた。
わたしもちょっとだけ上げた。
……あの夜の声はもっと高くて、もっと頼りなかった。
頼りないほうが、よかった。
「……今年の声、去年よりいい」
隣で殿が真顔で言った。
「殿、声恋?」
「声恋じゃない。評価してるだけ」
殿は学ランの袖を一つ折り返しながら言った。
場内放送の声は、体育祭の日にしか聞けない。
それなのに毎年、この声に本気で恋をする一年生が、
何人か出る。
サクは放送部として、
応援合戦と、いくつかの種目の実況をすることになっていた。
場内放送は機械の声だけれど、
実況だけは毎年、放送部の生徒がやる。
人間の声の実況は、機械の声よりずっとうるさい。
「さあ始まりました! 障害物競走!
赤組、一年生の高橋選手、網に、網に、絡まっております!
出てこない! まだ出てこない! これはもう網と一体化している!」
サクの声はマイクがなくても、
たぶんグラウンドの反対側まで届いた。
マルは調理部として、救護のテントの横で、
レモンのはちみつ漬けを配っていた。
「一人一枚ね。今日のいちばん困ってる人は、二枚」
テントの前には、困ったふりをした一年生が行列を作っていた。
シッポは写真部として、
首からカメラを提げて、グラウンドのあちこちを撮っていた。
でもときどき、競技とは関係のない方向に、
少しすっぱいものを食べたような顔で、レンズを向けていた。
上流のほう、沢渡のある方角の空だった。
わたしの出番は借り物競走だった。
スタートのピストルが鳴って、
グラウンドの真ん中に置かれた封筒を一つ拾った。
中のカードを開いた。
〈いま、いちばん大切にしているもの〉
わたしはカードを持ったまま、一瞬立ち止まった。
まわりの子たちはもう走り出していた。
〈赤いもの〉のカードを引いた子が、
マルのほっぺたのペイントを指さしていた。
〈先生〉のカードを引いた子が、寮監の先生の手を引っぱっていた。
寮監の先生はなぜか少しうれしそうだった。
いちばん大切にしているもの。
最初に浮かんだのは、ハンカチだった。
家紋の入った、絹のハンカチ。
でも、あれは桐生の家のものだ。
おばあさまの針目で、家の印が縫ってある。
わたしが大切にしているのか、
大切にするように育てられたのか、
ときどきわからなくなる。
それに、あれは今ここにはない。
沢渡のどこかで、名前も知らない誰かが持っている。
預けたままだ。
わたしはテントの裏の自分の鞄まで走った。
鞄の中から一冊のノートを出した。
方丈記を一文ずつ書き写したノートだった。
毎晩、一日一通の手紙に添えられてくる、一文。
それをわたしは一つも欠かさずに書き写していた。
表紙は購買でいちばん安いノート。
中の字は全部、わたしの字。
一文ずつあの人がくれて、わたしが写した。
どこの家のものでもない。
ノートを胸に抱えてゴールに走った。
「さあ、借り物競走、赤組のアヤ選手、ゴール!
持ってきたのは……ノート! ノートです!
カードは〈いま、いちばん大切にしているもの〉!
中身は不明です! 中身は不明ですが、
本人の顔が真っ赤です!」
サクの実況がグラウンドじゅうに響いた。
「サク、うるさい!」
「実況だから!」
審判の先生がノートの表紙をちらっと見て、
「……合格」と言った。
中身は見なかった。
午後の目玉は応援合戦だった。
赤組の応援団長は殿だった。
学ランの殿がグラウンドの真ん中に一人で歩いて出ると、
それだけで白組の一年生の席から悲鳴が上がった。
「なんで白組まで叫んでるの」とマル。
「殿に組は関係ないから」とわたし。
殿は深く息を吸った。
それから学ランの袖をひるがえして、
低い、よく通る声で叫んだ。
「赤組ィ! 気合い入れろォ!」
殿の声はふだんよりずっと低かった。
練習のとき、男子の応援団の真似をしようとして、
誰も男子の応援団を見たことがないので、
結局、ばあやの物まねと同じ声の出し方になったらしい。
赤組の全員が腹の底から叫び返した。
「おォォォ!」
太鼓が鳴った。
旗が上がった。
大きな赤い旗が、五月の青い空にまっすぐ上がった。
わたしも喉が痛くなるまで叫んだ。
叫びながら頭のすみで考えていた。
男子校の体育祭も、こんな感じなんだろうか。
もっとむさ苦しいのかもしれない。
学ランの下に何も着ていない人がいたりするのかもしれない。
そんなわけないか、と笑いかけて、
あの夜の声を思い出した。
冬でも上は裸のやつがいます。
あの人の街なら、本当にいるのかもしれない。
応援合戦は赤組が勝った。
殿はグラウンドの真ん中で、一年生たちに囲まれて、
困った顔で立っていた。
「殿って言うな」と、たぶん十回くらい言っていた。
誰も聞いていなかった。
写真を撮らせてください、と一年生が手首を向けたとき、
殿は「あとにして」と言った。
いつもの殿より半音低い声だった。
一年生の顔がすっと固まった。
殿は三歩歩いてから止まった。
戻ってきて学ランの襟を直して、手首の前に立った。
「……一枚だけね」
片付けのとき、殿はわたしにだけ言った。
「学ラン、重い」
推薦状の四十七通に、殿はまだ返事を書き終えていない。
リレーのとき、わたしは、
グラウンドのすみで写真を撮っているシッポの隣にいた。
シッポはリレーを撮っていなかった。
カメラはまた上流の空を向いていた。
「シッポ、リレー始まるよ」
「うん」
シッポはシャッターを一回切った。
それから、ファインダーから目を離して、
自分の手首の時計を見た。
三時十五分だった。
リレーはどこの体育祭でも、いちばん最後だ。
「……今ごろ、走ってるかな」
シッポが誰に言うでもなく言った。
「誰が?」
シッポはファインダーをのぞきなおした。
それから、撮ったばかりの写真をわたしに見せてくれた。
上流の空。
雲が一つもない、真っ青な空だった。
「沢渡のほう?」
「うん」
シッポはカメラの紐を指に巻いて、ほどいた。
わたしは聞くのをやめた。
聞かれたくないことがある人の顔だった。
最近、寮の鏡の中で同じ顔を見る。
その夜、寮の布団の中で手首を開いた。
体じゅうが痛かった。
喉が、がらがらだった。
ほっぺたにはまだ少し、赤いペイントが残っていた。
佐藤くんの一通は、棒が倒れたという話だった。
下で支えていて少しつぶれたらしい。
最後の一行だけ何回も読んだ。
つぶれたまま見た空が、とてもよく晴れていました。
わたしは布団の中で、声を出さずに笑った。
笑ったら、ほっぺたのペイントがぱりとひび割れた。
棒倒し。
男子校の体育祭だ。
あの人も今日、体育祭だったんだ。
同じ日に。
……ずるい。わたしだけ、知らなかった。
同じ、よく晴れた空の下で。
あの人は棒の下でつぶれていて、
わたしはノートを抱えて走っていた。
川の上流と、下流で。
今日の一通はもう決まっていた。
こちらは、旗が上がりました。
友達が、学ランを着て、応援団長をしました。
学ランを借りてきた理由が、これでわかりましたか。
空は、こちらも、とてもよく晴れていました。
つぶれたところは、痛くないですか。
送信前チェック。
<送信不可>
<理由:不適切な表現>
<判定:身体への過度な関心>
<対象:つぶれたところは、痛くないですか>
わたしは手首の上の赤い文字を、一語ずつ区切って読んだ。
身体への。過度な。関心。
過度って、どこからが過度なの。
つぶれたか聞くのは、そんなにいけないこと?
……心配しただけなのに。
殿がここにいたら、たぶんばあやの声で読み上げてくれた。
お嬢さま。殿方のおからだのご心配は、はしたのうございます。
寮のみんなはそれで笑う。
わたしもいちばん大きな声で笑う。
でも、家に帰れば、
それとよく似たことを、物まねじゃない声で言う人がいる。
おばあさまの声は、殿のよりずっと静かだ。
最後の一行を消した。
消して、かわりに書いた。
今日は、かつ丼が食べたい日でした。
<送信可能>
送信した。
かつ丼は、会いたい。
つぶれたところは痛くないですか、と聞けない日は、
かつ丼が食べたい、と書けばいい。
ばあやはかつ丼の話を、
今日もかつ丼の話として通した。




