棒倒し
男子校の体育祭を一語で要約するなら、むさ苦しい、で足りる。
二語使っていいなら、むさ苦しくて、うるさい。
五月の終わりの日曜日、沢渡の空はよく晴れていた。
グラウンドのまわりには赤と白の旗が立ち並び、
朝の七時からどこかで誰かが雄叫びを上げていた。
「赤組ィ! 気合い入れろォ!」
赤組の応援団長は三年の柔道部の先輩だった。
学ランの前を全開にして太鼓を叩いていた。
太鼓の音より先輩の声のほうが大きかった。
「戸川、学ランの下、何も着てねえぞ、あの人」
テツが目を輝かせていた。
「五月だぞ」
「気合いがあれば寒くねえんだよ」
男子校の体育祭では、だいたい誰かが脱いでいる。
脱ぐ理由を説明できたやつは、四年間で一人もいない。
冬でも上が裸のやつがいる、と俺はあの夜、暗闇に向かって言った。
誇張したつもりだったが、控えめな報告だったらしい。
グラウンドのスピーカーから放送が流れた。
「ただいまより、第五十二回、沢渡学園体育祭を開会いたします」
落ち着いた女の声だった。
この街で聞く女の声は、だいたい機械のものだ。
体育祭の場内放送も例外じゃない。
それでもグラウンドじゅうがどよめいた。
「……今の声、よくね?」
ユウが白組の席から、こっちに向かって言った。
白組と赤組の境目のロープを、平気でまたいでいた。
「機械だぞ」とテツ。
「機械でも、よかった」
「お前、それ毎年言ってるだろ」
「毎年よかったんだよ」
沢渡の男子はこの声を「お姉さま」と呼んでいる。
先輩から代々受け継がれてきた呼び名だ。
みんなの頭の中のお姉さまは、年上で、髪が長くて、
ちょっと厳しくて、最後には笑ってくれる人の姿をしている。
姿は誰も見たことがない。
そもそも、姿はない。
午前中の種目はだいたいいつもどおりだった。
百メートル走でユウが盛大に転んだ。
転んで、起き上がって、
なぜか観客席に向かって手を振ってから、また走った。
障害物競走ではテツが網に絡まって、
三分間出てこなかった。
綱引きでは、白組のキンさんが、
綱の一番うしろで腰を落として、ほとんど動かなかった。
動かないまま、赤組は引きずられていった。
「キンさんが重りになってる」
「重りじゃねえ。柔道は、まず崩れないことだ」
キンさんは綱を置いて、首の汗を手のひらでぬぐいながら言った。
それから麦茶を一口すすった。
グラウンドでも、湯呑みだった。
昼休み、木陰で焼きそばパンを食べた。
今日のは体育祭の特別メニューで、
牛こまがいつもの倍入っていた。
手首をこっそり開いた。
掲示板の〈今日の話題〉には、
全国の体育祭の書き込みが並んでいた。
〈うちの学校、棒倒しで三人保健室〉
〈応援団長が学ランの下、裸〉
〈女子校の応援合戦、見てみたい〉
その中の一つのハンドルネームで、
俺の目が一瞬止まった。
〈佐々木〉
佐々木だった。
佐藤じゃない。
もう一つ下に、〈佐伯〉。
また目が止まった。
「……戸川」
隣で同じパンをかじっていたユウが、俺の手首をのぞきこんでいた。
「お前、さっきから佐って字のところで止まってない?」
「止まってない」
「止まってる。佐々木で一回、佐伯で一回」
ユウはこういうときだけ目ざとい。
「何、佐って字に、何かあんの」
「……ない」
「戸川先生、顔が赤いです」とテツが言った。
「焼きそばパンが辛かった」
「お前、それ前も言ってたぞ」
四月から、掲示板で〈佐〉の字を見るたびに、
目が一拍だけ引っかかるようになった。
佐藤の、佐。
自分で選んだ、ありふれた仮名の一字目だ。
四千人いる佐藤のために、いちいち止まる目は、
効率という点では、どう考えても欠陥品だった。
自分でも理由はよくわからなかった。
代筆なら依頼人の名前は、書きはじめる前に一度だけ見る。
あとは忘れる。
他人の名前にいちいち引っかからないのが、
この商売の数少ない作法だ。
その作法が、〈佐〉の一字で、あっけなく崩れる。
午後の目玉は棒倒しだった。
赤組と白組が、それぞれ一本ずつ太い棒を立てる。
相手の棒を倒したほうが勝ち。
ルールはそれだけだ。
それだけなのに、毎年何人か保健室に運ばれる。
俺は赤組の棒のいちばん下にいた。
倒す側じゃない。
倒されないように、棒の根元を支える側だ。
帰宅部には、それくらいしかできることがない。
「戸川先生、絶対離すなよ」
テツが俺の肩に足をかけて、棒のいちばん上に登っていった。
テツはてっぺんで棒を守る役だった。
ピストルが鳴った。
白組が地鳴りみたいな声を上げて突っこんできた。
その先頭に、キンさんがいた。
キンさんは走らなかった。
歩いてきた。
歩いて、赤組の守りの列に正面からぶつかった。
ぶつかって、そのまま押した。
一人、二人、三人。
赤組の守りがキンさんの前で、
雪崩みたいにゆっくり崩れていった。
「キンさん、止めろォ!」
誰かが叫んだ。
止まらなかった。
キンさんの太い首が、棒の根元の俺の目の前まで来た。
「戸川」
「……なに」
「悪いな」
キンさんはそれだけ言って、
棒の根元に肩を入れた。
棒が傾いた。
俺は両腕で根元を抱えて踏ん張った。
棒のてっぺんでテツが叫んでいた。
「戸川先生ぇぇ! 離すなぁぁ!」
離さなかった。
離さないまま、棒ごと、
キンさんと一緒に地面に倒れた。
上からテツが降ってきた。
その上から、赤組と白組の何十人ぶんかの重さが、
順番に降ってきた。
気がつくと、空が見えた。
五月のよく晴れた空だった。
背中の下が土で、
胸の上にテツの膝があって、
右手の甲の傷跡のあたりが、じんじんと脈を打っていた。
あの夜、この手のひらの側には、
知らない人の髪が一瞬だけ触れていた。
テツの膝よりずっと軽かった。
「……生きてるか、戸川」
すぐ横でキンさんの声がした。
キンさんも俺の隣に大の字で倒れていた。
「生きてる」
「そうか」
キンさんは空を見たまま言った。
「……いい天気だな」
白組の勝ちだった。
お姉さまが、
落ち着いた声で白組の勝利を告げた。
グラウンドじゅうの男子が、
勝った白組も、負けた赤組も、
なぜか全員でその声に拍手をしていた。
リレーのアンカーはシッポだった。
赤組は三番手でバトンを受けた。
シッポはバトンを握った瞬間から、
もう誰も見ていなかった。
誰とも競っていなかった。
前を走る二人も、ゴールのテープも、
たぶん見ていなかった。
ただ、まっすぐ走っていた。
一人抜いた。
二人抜いた。
テープを切った。
ゴールの時計は三時十五分だった。
シッポは振り返りもせずに、そのまま空を見上げた。
下流のほうの空だった。
川を下った先の、白萩のある方角だった。
走り終わったことを、
そっちにいる誰かに知らせるみたいだった。
ゴールのそばで、陸上部の顧問の先生が、
手首の上のタイムを見て、三秒ほど固まっていた。
それから、まだ息の上がっているシッポのところへ、
大股で歩いていった。
「七尾。今の、自己ベストだ」
「……はい」
「六月の全国予選、出るぞ。
このタイムなら、選抜はまず間違いない。確定だと思っていい」
シッポの目が大きくなった。
「会場は、朝霧の競技場だ。
共住区だから、家族も見に来られる」
家族も、と顧問は言った。
シッポはもう一度、下流の空を見た。
それから小さく「……はい」と言った。
顧問はその場で手首に何かを打ちこんでいた。
全国予選の出場者の欄だった。
夕飯の食堂で、テツはキンさんの隣に座らなかった。
「てっぺんから落ちたんだぞ、俺は」
「知ってる。上に乗ってたのは、お前だ」
「そういう意味じゃねえ」
テツはトレーを持って、わざわざ窓際の端まで行った。
キンさんは追いかけなかった。
かわりに、風呂上がりのテツの部屋のドアノブに、
湿布の袋が一枚、ぶら下がっていた。
消灯前の点呼で見たテツの肩には、
もうその湿布が貼ってあった。
礼は言っていなかった。
キンさんも聞いていなかった。
その夜、寮の部屋で、
俺はぼろぼろの体で、手首を開いた。
背中が痛かった。
膝の形に胸があざになっていた。
代筆の手紙を書くとき、俺はまず依頼人の顔を思い浮かべる。
その顔が言いそうな言葉を、
検閲の網の目に合わせて削っていく。
あの人への一通には、思い浮かべる顔がない。
だから、自分の目で見たものを書くしかない。
三か月たっても、俺はそれにまだ慣れない。
今日の一通に何を書くかは、
棒の下で空を見たときから、もう決まっていた。
方丈記の続きは、また明日にします。
今日は、棒が倒れました。
下で支えていたので、少しつぶれました。
つぶれたまま見た空が、とてもよく晴れていました。
送信前チェック。
<送信可能>
送信して手首を閉じて、ベッドに倒れこんだ。
天井を見ながら考えた。
あの人の街の空も、今日は晴れていただろうか。
白萩はここから川に沿って、下流のほうへ行ったところにある。
同じ空の、続きだ。
続きだからといって、同じ天気とはかぎらないが。




