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幕間 アヤのいない朝

朝霧の丘の上の家の台所で、桐生由紀子は、

味噌汁の火を止めて、手首に話しかけていた。


「アヤ、おはよう。体育祭の練習、がんばってる?

いちご、ちゃんと食べた?」


〈送信しました〉


アヤというのは、娘の綾乃のことだ。


この家で娘をアヤと呼ぶのは、由紀子だけだった。

姑の志乃は「綾乃」と呼ぶ。

夫の隆之は、そもそも娘の名前をあまり口にしない。

月に一度、隆之が手首から送る連絡は、

〈健康に留意するように〉で始まる。

会社の定型文とほとんど同じ形をしていた。


アヤが十二で白萩の女子寮に移ってから、四年になる。


座敷から声が流れてきた。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」

床の間の前で、姑の桐生志乃が背筋を立てて座っている。

聞かせる相手のいない声だった。

孫が家を出てからも、志乃は一朝も欠かさずひとりで読む。

読まなければ、口から抜けていく。

抜けたものはどの記録にも戻ってこない。


「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、

久しくとどまりたるためしなし」


綾乃はこの二文目で毎朝つかえた。


家にいたあいだ、とうとう一度もここを最後まで言えなかった。


志乃は続きを読みながら、

小さく笑った。



食堂の長い机では、息子の隆之がもう朝刊を読んでいた。

紙の朝刊ではない。

手首の上に浮かべた細かい数字の並びだ。

ハカリを支える基盤の、稼働の報告。

各地の居住区の通信量。

掲示板の利用状況。


隆之はAIの基盤を支える会社の社長だった。

桐生の家が、三十年前に〈かささぎ〉に金を出したころから、

この家はずっとハカリのそばにいる。


「母さん、おはようございます」


「おはよう」


志乃は隆之の向かいに座った。


由紀子が台所から味噌汁のお椀を三つ運んできた。


「お義母さん、今朝は筍です」


「あら、いい香り」


由紀子が桐生の家に来て、もう二十年近くになる。

ハカリに選ばれて隆之に嫁いできた。


ふつうの家の娘だった。

はじめのころはこの家の広さにも、しきたりにも、

いつも借りてきた椅子に座るような顔をしていた。


今もときどき、その顔をする。


でも由紀子がいるから、この食卓は静かでいられる。

志乃はそれをよく知っていた。



「そういえば」


隆之が手首の上の数字から目を上げた。


「先月、交流掲示板で妙な書き込みが話題になったんですよ」


「妙な?」


「なぞなぞです。古い文章の続きを言えるか、っていう。

全国で何百件も返信がついて、誰も解けなかったのに、

一人だけ正解を出した子がいて」


志乃の箸が止まった。


「その古い文章、って」


「さあ。ぼくも読んでみたんですけど、さっぱりで。

『うたかた』がどうとか」


隆之は味噌汁をすすりながら軽く笑った。


「ハカリの記録にも、本文が残っていないらしいんです。

解いた子はどこで覚えたんでしょうね。

母さんのあれみたいに、誰かに読まされてたのかな」


あれ、と隆之は言った。

母が毎朝欠かさず続けているものを、代名詞ひとつで片づける。

子どものころ隣に座らされても、隆之は覚えなかった。

覚えなかったことを悔やんだこともない。

記録に残らないものは、管理の外にある。

管理の外にあるものは、隆之の仕事ではなかった。


「……そう」


志乃は静かに筍を口に運んだ。


「解ける子が、まだいたのね」



由紀子がお茶を注ぎながら、ぽつりと言った。


「アヤも、毎朝読まされてましたよね。

あの子、二文目でいつもつかえて」


「そうだったな」と隆之は言い、

手首の数字に目を戻した。

娘がどの行でつかえていたのか、

隆之は一度も隣で聞いたことがない。

その時間、隆之はもうこの机で、

ハカリの稼働率を読んでいた。


志乃は湯呑みを両手で包んだまま、

窓の外の庭を見ていた。


綾乃の部屋の文机の引き出しには、

家紋を刺繍した絹のハンカチが三枚入っているはずだった。

外には持ち出さないように、と志乃が縫って渡したものだ。

今年の正月に帰ってきたとき、

綾乃は一枚だけ寮に持っていったらしい。


知っていて、口にしなかった。

孫をかばったから、だけではない。

ハンカチの話をすれば、隆之は、

家紋が外に出ることの意味を、

会社の言葉で説明しはじめるだろう。

それを朝の食卓で聞かされるのが、

志乃は何よりいやだった。


家の名前も家紋も、外には出さないように育ててきた子だった。

それでも、家紋のハンカチを一枚だけ持っていった。


外に出してはいけないものを、

外に持っていきたくなる年ごろなのだ。


「お義母さん?」


由紀子が首をかしげていた。


「なんでもないわ」


志乃は茶を飲みほして席を立った。



朝ごはんのあと、隆之は会社へ出かけた。


由紀子は台所で洗いものをしていた。

鼻歌が聞こえた。

いつも半音ずれている。


志乃は座敷に戻って、

床の間の前にもう一度座った。


なぞなぞの続きを、全国でたった一人言えた子がいた。


この国で方丈記を毎日声に出して読ませている家は、

もうほとんど残っていない。


志乃が知っているのは、

この家と、

それから、ほんのいくつかだけだ。

毎朝読ませていたのは、この家。

毎晩読ませていたのは。

志乃はその先を声にしなかった。

声にすれば、名前が口に乗る。

口に乗ったものは、なくならない。

この家でそれを孫に教えてきたのは、志乃自身だった。

記録に残らない場所にあるうちは、

どちらの子のことも、守っていられる。


かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


志乃は目を閉じて、

いつものように最初の一文から読みはじめた。


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