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かつ丼

一日一通、と知ったとき、

サクは食堂の長い机に突っ伏して笑った。


「一日一通? それ、もう文通じゃん」


「文通だよ」


「アヤ、大昔の人の恋してる」


「大昔って、いつ」


「知らない。とにかく昔」


殿が味噌汁のお椀を持ったまま、遠い目をした。


「ばあやのくせに、ロマンチックなことするよね」


「ロマンチックじゃない。制限」


「制限がロマンチックなんだよ」


殿はときどき王子様みたいなことを言う。

本人は言ったあとで、だいたい後悔している。



一日一通は、思っていたよりずっと長かった。


朝、目が覚めたらまず手首。

……来てない。

知ってる。あの人は夜に書く人だ。

知ってるのに、見る。


授業。昼ごはん。部活。

そのあいだじゅう頭のすみで、

今夜の一行目をころころ転がしている。


転がしすぎて、茶道部でお湯をこぼした。


「アヤ先輩、スカートが濡れてます」


一年生に言われて初めて気づいた。


お茶の作法は十になるまでに、

家でひととおり仕込まれた。


桐生の綾乃はお湯をこぼさない。

こぼしたのは白萩のアヤのほうだ。


濡れたスカートをつまみながら、

こっちのわたしも悪くない、とこっそり思った。


※


最初の何日かで、わたしは一つ試してみた。


  かつ丼は、食べたことがありません。


送信に触れるまでに、十分かかった。


わかるはずがない。

こんなの、ほとんど言葉遊びだ。

ばあやどころか、本人にだって伝わらないかもしれない。


その夜、返事が来た。


〈佐藤〉


  とても食べてみたいです。


わたしは布団の中で手首を額に押しあてた。

画面の光がまぶたの裏まで白い。

足の指が勝手にぎゅっと丸まった。


伝わった。

伝わった、伝わった、伝わった。


とても、だって。

とても食べてみたいです、だって。


暗がりの向こうからサクの声がした。


「アヤ、布団の中で何ばたばたしてんの」


「してない」


「してる。足が見えてる」


※


それからわたしたちの一日一通には、

少しずつ二人にしかわからない言葉が増えていった。


かつ丼は、会いたい。


毛布は、さみしい。

あの夜の毛布はとにかく薄かったから。

「今日は毛布が薄いです」と書けば、

今日は少しさみしい、という意味になった。


反対側は、あの人のいる場所のことになった。


あの夜、あの人はトイレの反対側に迷いこんできた。

そして今、あの人がいるのは、

川の上流の、わたしから見て反対側の街だ。


だから「今日は、反対側の空がきれいでした」と書けば、

それは、今日はあなたのことを考えていました、という意味になる。


あの人はこう返してきた。


  こちらも、反対側の空を見ていました。


ぼくもあなたのことを考えていました、という意味だ。


同じ空を、上流と下流から見ていた。


それから、焼きそばパン。


ある日、わたしはどうしても気になっていたことを書いた。


  ソースの匂いがする食べ物で、好きなものはありますか。


あの夜、抱えこまれた腕の中で、

石けんと一緒にした、あの匂い。


あの人はわたしが誰の娘かも知らずに、

わたしの頭と鉄の扉のあいだに手を入れた。


理由を考えるより先に手が出ていた。

そういう手の人が、

毎日何を食べているのか、知りたかった。


返事はこうだった。


  焼きそばパンです。

  ほぼ毎日食べています。牛こまです。

  ときどき、二個もらうこともあります。


二個もらうというのが、小骨みたいに引っかかった。


買う、ではなく、もらう。


誰に、何のためにもらうのだろう。


でもそれを聞く一通はもったいなかった。

わたしは牛こまのはさまったパンを想像して、

ちょっと笑って、

その日の一通を別のことに使った。


※


ばあやとの攻防は毎晩続いた。


  声が聞きたいです。


<送信不可>

<理由:不適切な表現>

<判定:接触の要求>

<対象:声が聞きたいです>


  あの夜の声を、毎日思い出します。


<送信不可>

<理由:不適切な表現>

<判定:特定の個人への感情の表明>

<対象:毎日思い出します>


殿はわたしが弾かれるたびに、

ばあやの声で読み上げてくれた。


「お嬢さま。声のご要求は、はしたのうございます」


「殿、それ毎回やるの」


「毎回やる。これがないと、アヤが弾かれた気がしないでしょ」


弾かれた気はしなくていい。



そのかわり、ばあやは、

方丈記だけはいつも素通りさせた。


あの人は一通ごとに、方丈記を一文ずつ送ってくる。


方丈記の一文に何か意味が隠されているわけではなかった。

あの人は続きを渡すと書いたから、

毎晩順番に一文ずつ渡してくれているだけだ。


わたしはそれを一文ずつノートに書き写した。


図書室で借りた紙の方丈記と並べて、

一文ずつ答え合わせをした。


あの人は一文字も間違えていなかった。


続きの答えは本に書いてある。

それでもあの人の一文で読みたかった。


本の字は、誰が読んでも同じ字だ。


あの人の一文は、

あの人の指が、今夜、

わたしのためだけに打った字だ。


ある日の放課後、図書室の修理の机のところで、

司書さんがわたしのノートをのぞきこんだ。


「どこまで進んだの」


「毎日、一文ずつです」


司書さんはノートの最後の行を見た。


それから、眼鏡の奥の目を細くした。


「いい読み方ね」


「……誰かに教えてもらってるんです」


言ってから、しまったと思った。


司書さんは、誰にとは聞かなかった。


ただ刷毛に糊をつけながら、

ひとりごとみたいに言った。


「昔はね、そうやって覚えたのよ。

誰かが一文言って、誰かが一文返して」


刷毛が古い本の背をゆっくり撫でていった。


「本に書いてあるものは、

いつか読めなくなるかもしれないでしょう。

でも、誰かの口に住んでいるものは、

その人がいるかぎり、なくならないの」


※


そのころ寮では、もう一つの文通が始まっていた。


「アヤ、見て」


マルが手首をずいっと寄せてきた。


〈鉄筋〉


  鶏むね肉はゆでるとパサパサになるので、

  寮の朝ごはんでは卵を三個食べています。

  牛乳は一日一リットル飲みます。

  筋肉は裏切りません。


「……誰、これ」


「沢渡の男子。筋肉の書き込みばっかりしてる人」


「なんでマルがその人と相互承認してるの」


「筋肉の書き込みが、あんまり真剣だったから。

何を食べたら育つのか、聞いてみたくなって」


マルは大まじめに言った。


「この人、毎日何を食べたかを全部書いてくるの。

すごく食べる人なんだよ」


「マル、食べてくれる人が好きって言ってたよね」


「言ってた」


マルは、手首の上の〈鉄筋〉の長文を見ながら、

ほっぺたをほんのり赤くした。


「……でも、この人、鶏むね肉の焼き方を間違えてる」


「そこ?」


「そこが、いちばん大事」


マルはその夜、

鶏むね肉をパサパサにしない焼き方を、

〈鉄筋〉に向けて、一日一通ぶんの長文で書いた。


一日一通の枠をまるごと鶏むね肉に使っていた。


※


四月の半ばにはもう体育祭の準備が始まった。


女子校の体育祭の目玉は応援合戦だ。


赤組の応援団長は殿だった。

殿本人は最後まで嫌がった。

でも下級生からの推薦状が四十七通集まった。

四十七通も集まったら、もう断れない。


応援団長は学ランを着る。


それがこの学校の伝統だった。


男子のいない学校で、

誰が始めたのかわからない伝統だった。

学ランは毎年、共住区のどこかの古着屋から、

先生がまとめて借りてくるらしい。


試着した殿は寮の廊下で、

一年生たちに囲まれて、棒みたいに立っていた。


学ランの袖が指の付け根まで来ていた。


「……殿」


サクがため息まじりに言った。


「似合いすぎてて、腹が立つ」


「似合うって言われるの、もう飽きた」


殿の声がいつもより一段低かった。

サクが口を開けたまま止まった。


四十七通の推薦状はぜんぶ、

殿じゃない誰かに宛てた手紙みたいだった。


「……あと、殿って言うな」


学ランで言われても、説得力はなかった。

それでもその夜、サクは殿の分の洗濯物まで畳んでいた。



その夜の一通に、わたしはこう書いた。


  今日は、友達が学ランを借りてきました。

  理由は聞いていません。


本当は理由は知っていた。


でも、応援団長とか、伝統とか、

四十七通の推薦状とか、

全部書いていたら、一通では足りない。


それに、理由が書いていないほうが、

あの人はきっと考える。

女子が、学ランを。なぜ。って。


考えているあいだは、

あの人の頭の中に、わたしがいる。


……ずるいかな。

ずるい。

でも、ばあやはずるいのは止めない。


送信前チェック。


<送信可能>


わたしは手首を閉じて、

ノートの方丈記の最後の一文を指でなぞった。


明日の夜、また一文ずつ。


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