一日一通
その通知が来たのは、四月四日の夜の十一時過ぎだった。
〈相互承認が成立しました〉
〈鈴木さんとの個別のやりとりが可能になりました〉
俺は椅子から立ち上がり、狭い部屋を、
意味もなく一周して、また座った。
処理しきれない通知を受け取ると、
人間はとりあえず歩くようにできているらしい。
もう一度立って窓を開けた。
四月の夜気はまだ指先に冷たかった。
白萩の明かりは今夜も下流の端で、
にじんだまま動かなかった。
手首がもう一度震えた。
〈鈴木〉
はじめまして、ではないですね。
一行だけだった。
俺は窓枠に手をついたまま、
その一行を十回くらい読んだ。
はじめまして、ではない。
二回目だ。
一回目は真っ暗な体育館だった。
声と、冷たい手と、ソースの匂いと、ハンカチだけの。
二回目は文字だけだ。
顔はまだ一回も見ていない。
返事を書こうとして指が止まった。
書きたいことが多すぎた。
妙な話だった。
代筆なら、三分で一通書ける。
自分の一通は、三分たっても一行目が決まらない。
聞き役のいない言葉は選びようがなかった。
あの夜のこと。
記録を見つけたときのこと。
「電気に関係のあること」の意味に気づいて、
一人で耳まで赤くなったこと。
ハンカチを引き出しのいちばん奥にしまってあること。
全部書いた。
送信前チェックに触れた。
<送信不可>
<理由:不適切な表現>
<判定:特定の個人への感情の表明>
<対象:あの夜のことを、毎日思い出しています>
<対象:耳まで赤くなりました>
耳まで赤くなりました、まで止められるとは思わなかった。
書き直した。
止められた。
また書き直した。
三回目でようやくこうなった。
はい。二回目です。
毛布は、あいかわらず薄いです。
送信した。
〈送信しました〉
それからどうしても一言だけ付け足したくなって、
もう一通書いた。
かつ丼は、八十件でしたね。
送信前チェック。
<送信不可>
<理由:個別のやりとりの送信上限>
<本日の残り:0通>
<次回送信可能:明日 午前零時>
俺は座りなおすのも忘れて、手首を見ていた。
本日の残り、0通。
画面の下に小さく説明が出ていた。
〈パートナーのいない未成年の異性どうしの〉
〈個別のやりとりは、一日一通までです〉
一日一通。
手首の上の白い画面を見た。
会話じゃない。
これは手紙だ。
子どものころ、父が言っていたことを思い出した。
父は書斎の机で、原稿の上に頬杖をついたまま、
小学生の俺に向かって言ったのだ。
「手紙っていうのはな、
出したあとに待ってる時間まで含めて、手紙なんだ」
そのときは何を言っているのか、まるでわからなかった。
今も全部わかったわけじゃない。
ひとつだけ思い当たることはある。
父の原稿は、ここ十年書斎から出ていかない。
出さなければ、待つ時間も来ない。
待たずにすむかわりに、
それは手紙にもならない。
少なくとも、今夜の一通はもう出した。
零時まで、あと五十分。
零時に送れば、それは明日の一通になる。
どちらにしても俺は、
この一通の返事を待つしかない。
待っているあいだに、たぶん、
明日の一通に何を書くかをずっと考える。
それも含めて、手紙なのかもしれない。
※
次の日の夜、返事が来た。
〈鈴木〉
毛布、こちらもまだ薄いです。
かつ丼は、食べたことがありません。
ベッドの上で手首を見ながら、
鼻からふっと息がもれた。
かつ丼。
あの書き込みに来た八十件の珍回答。
誰も「かつ結びて」に届かなかった、あのかつ丼だ。
食べたことがありません。
かつ丼の「かつ」は、かつ結びての「かつ」だ。
かつ結びて。
消えた泡がまたどこかで結ぶ。
もう一度、会う。
それを食べたことがない、とあの人は書いた。
まだ会えていない、と。
考えすぎかもしれない。
代筆屋は何でも裏から読む癖がある。
ただのかつ丼の話かもしれない。
でも、あの人は縦に一つ隠す人だ。
ただのかつ丼の話を、わざわざ一日一通の枠で書いたりはしない。
その夜の一通に、俺はこう書いた。
かつ丼は、ぼくも食べたことがありません。
とても食べてみたいです。
送信前チェック。
<送信可能>
アラタメはかつ丼の話を、かつ丼の話として通した。
※
三日目からは、俺は一通ごとに、
方丈記を一文ずつ添えることにした。
まだ、その先も言えます。
あの書き込みで、俺はそう書いた。
書いた以上は、続きを渡さないといけない。
たとえばこんなふうに。
世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
今日は、体育の授業で走りました。
一日一文。
方丈記の続きと、その日あったどうでもいいこと。
方丈記の一文に意味を込めているわけじゃない。
暗号でもない。
続きを渡すと書いた以上、順番どおりに渡している。
代筆屋は約束した字数だけは守る。
アラタメは方丈記を一度も止めなかった。
八百年前の文章は、あの機械にとって、
たぶん意味を持たない記号の列なのだろう。
意味を持たない記号の列が、毎晩、
一字も欠けずに向こうへ届く。
それで十分だった。
あの人からの一通も、だいたい同じ形になった。
次は、どう続くんですか。
今日は、寮のいちごがなくなりました。
その次は、どう続くんですか。
今日は、友達が学ランを借りてきました。
理由は聞いていません。
女子が学ランを借りてくる理由が、まったく想像できなかった。
※
そのころ男子寮の談話室では、別の事件が起きていた。
その夜、壁の大きな画面ではニュースの特集が流れていた。
〈暮らしを支える牛たち〉
広い牧場に白と黒の牛が、どこまでも並んでいた。
「肉も牛乳も一頭からとれる牛は、
人口最適化計画のもとで、
国民の健康を支える大切な産業になっています」
だから購買のプリンは三十円で、
パンの具は、牛こまで、
豚の焼きそばは正月のごちそうなのだ。
小学校の社会で習ったことを、
テレビがもう一度ていねいに説明していた。
「牛はえらい」
ソファに寝転がっていたテツが、しみじみと言った。
「牛は裏切らない」
「筋肉みたいに言うなよ」とユウ。
「筋肉も牛も、裏切らないんだよ。
俺、毎日牛乳一リットル飲んでるからわかる」
「一リットル飲んでるやつが言うと、説得力あるな」
キンさんが牛乳をすすりながらうなずいた。
湯呑みに牛乳を入れているのは、寮でキンさんだけだ。
そのとき、テツの手首が震えた。
「来た!」
テツがソファの上で手首を突き上げていた。
「女子から返事来た! 俺の筋肉に!」
「まじかよ」とユウが言った。
テツのハンドルネームは〈鉄筋〉だった。
鉄村だから、鉄筋。
本人はすごく気に入っていた。
テツの手の甲の上に、相手の書き込みが浮かんでいた。
〈牛乳プリン〉
筋肉は、何を食べたら育ちますか。
「牛の話してたら、牛乳プリンから来た!
な! 女子だって筋肉は好きなんだよ!」
「好きかどうかは書いてねえだろ」とユウ。
「何を食べたら育つか、って聞いてる時点で好きだろ」
「料理の話してるだけじゃね」
「料理と筋肉は、一つだからいいんだよ」
テツは意味のわからない理屈を言って、
その場でものすごい長文の返事を書きはじめた。
鶏むね肉とか、卵とか、牛乳とか、
寮の朝ごはんの何が筋肉にいいかとか。
〈牛乳プリン〉からは、次の日、
テツの長文よりさらに長い料理の作り方が返ってきた。
テツはそれを真剣な顔で三回読んで言った。
「……俺、この人と結婚したい」
「まだ一日一通しかやりとりしてねえだろ」
「一日一通で、わかることもあるんだよ」
ユウが吹き出した。
キンさんは横を向いて肩を揺らした。
吹き出したあとでユウは、
自分の手首を一回だけ開いて、すぐに閉じた。
誰もそこには触れなかった。
俺は笑いそびれた。
一日一通で、わかることもある。
テツの理屈はだいたい筋肉でできていて、
九割がたはめちゃくちゃだ。
ただ、残りの一割が、
ときどき人の急所に当たる。
※
四月の終わりに、ホームルームで体育祭の組分けが発表された。
「赤組。戸川、鉄村、七尾……」
「白組。金城、結城……」
テツが俺の肩をばしばし叩いた。
「戸川先生、赤だぞ。一緒に棒倒し出ようぜ」
「やだ」
「なんで」
「棒倒しは、帰宅部が出る競技じゃない」
「帰宅部が出ちゃいけない競技なんて、ねえよ」
結局、赤組の棒倒しの欄に、
俺の名前はテツの手で勝手に書きこまれた。
白組のキンさんが遠くから、
腕を組んでこっちを見ていた。
目尻だけが笑っていた。
シッポはリレーのアンカーに選ばれていた。
本人は名前を呼ばれても、
いつもどおり窓の外を見ていた。
その夜の一通に、俺はこう書いた。
河の流れは絶えずして、とはよく言ったもので、
今月は、あっという間でした。
体育祭で、棒倒しに出ることになりました。
倒す側ではなく、倒されないように支える側です。
送信して手首を閉じた。
代筆の注文は四月も途切れなかった。
パン一個で、他人の一通を書く。
書きながら、ときどき手が止まるようになった。
これを受け取る誰かも、
零時まで待つのだろうか。
明日の午前零時まで、また待つ。
一日一通の手紙が、いつのまにか、
俺の一日の真ん中に居座っていた。
代筆の締め切りより、よほどたちが悪い。




