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四月三日の朝、寮の洗面所でサクがわたしの肩をつかんだ。


右手に歯ブラシ。

左手首に掲示板。


「アヤ! 来た! 正解者!」


声が大きすぎて、洗面所にいた全員がこっちを見た。


「……サク、声」


「声とかどうでもいいの。見て。かつ丼じゃなかった」


サクの手首の上に、〈今日の話題〉の欄が浮かんでいた。


〈一位:その先、言えますか(返信五百六件)〉

〈正解者、現る〉


心臓がどんと一回だけ鳴った。


歯ブラシをくわえたまま手首を開いた。

ミントの味が急にしなくなった。

指が言うことをきかない。

画面の上で二回すべった。


〈正解者〉の印がついた、一件だけの返信。


〈佐藤〉


  かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。


そこまで読んで手首を閉じた。


閉じてから深く息を吸った。


洗面所の鏡に歯ブラシをくわえた自分の顔が映っていた。

ひどい顔だった。

寝ぐせと、歯みがき粉と、

それから、たぶん泣きそうな顔。


家の洗面所の鏡は、わたし一人のためにあって、

曇りひとつなかった。


ここの鏡は六人で一枚だ。

誰かの歯みがき粉が飛んだまま乾いている。


その鏡に映っている顔のほうが、

たぶん本当のわたしの顔だ。


「アヤ?」


サクが歯ブラシを止めて、わたしの顔をのぞきこんだ。


「……あとで読む」


「あとで? 今じゃなくて?」


「今は、無理」


サクは歯ブラシを止めたまま、

三秒くらいわたしの顔を見ていた。


それから蛇口をひねって、

がらがらと、ものすごい音でうがいをした。


サクは声が大きくて、がさつで、容赦がない。

でも、こういうときだけ黙ってくれる。

黙りかたまでがさつだけど。



その日は一日中、手首を開けなかった。


開いたら、談話室でも、

食堂の長い机の前でも、

たぶんどうにかなってしまう気がした。


昼ごはんのとき、マルが牛乳プリンを置いてくれた。


プリンのふたまで開けてくれた。


殿はずっと窓の外を見ていた。

でも、ときどきこっちを横目で見ていた。


シッポだけがいつもどおり、

屋上でカメラを構えていた。



その夜、布団の中でようやく手首を開いた。


部屋の明かりは消してあった。


向かいのベッドで、サクが寝返りを打つ音がした。

寝ているのか寝たふりをしているのかは、わからなかった。


〈佐藤〉


  かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

  えんえんと続く文章ですが、ここまでは言えます。

  しつこく毎晩、読まされたので。

  まだ、その先も言えます。

  すこし時間はかかりますが。


かつ結びて。


あの夜、白い光の中で、

わたしが言いかけて置いてきた言葉。


返ってこなかった続き。


それが全国から来た五百六件の返信の中に、

一件だけ、ちゃんとあった。


八十件のかつ丼にまぎれずに。


しつこく毎晩、読まされたので。


あの夜、あの人は言った。

父親に読まされて。小さいころ、毎晩。


わたしは毎朝で、

あの人は毎晩だった。


「しつこく」の一語に、

文句を言いながら毎晩読まされていた男の子が見えた。


まだ、その先も言えます。


その先。


方丈記の続きのことだ。

かつ結びての、さらに先。


でも、たぶんそれだけじゃない。


すこし時間はかかりますが。



それからわたしは、

自分がやったのと同じことをやってみた。


頭の字を拾うのに、もう指はいらなかった。


かえします。


わたしは布団の中で、手首の光を胸に押しあてた。

パジャマごしに画面がほんのりあたたかい。


かえして、とわたしは書いた。

かえします、とあの人は書いた。


それだけ。

それだけなのに、足の先までじんじんした。


すこし時間はかかりますが。


すこしって、どれくらいだろう。

一年? 二年?

……十八の誕生日より前?


胸の上の光が急に重たくなった。


※


次の日は始業式だった。


高校二年生になった。


クラス替えはなかった。

わたしたちの学年は一クラスしかない。

中学一年からずっと同じ顔ぶれだ。


体育館で校長先生の長い話を聞いた。


五月の終わりには体育祭があります、と校長先生は言った。

後ろの席で殿が小さくガッツポーズをした。


その後ろで新しい中学一年生たちが、

まだ大きすぎる制服を着て、緊張した顔で並んでいた。


昨日の夜、何人か廊下で泣いていたらしい。


今朝、マルがその子たちのために、

マフィンを焼いていた。


「新入生は毎年、困るのが仕事だから」


マルはそう言って、

一年生一人ひとりの手にマフィンを乗せていた。



始業式のあとは教室でホームルームだった。


なぞなぞの話はもう学年じゅうに回っていた。


担任が出席を取り終えてから、

「全国の一位、うちの学年の子らしいね」と、

笑わずに言った。


何人かがわたしのほうを見た。

見なかった子のほうが多かった。

見なかった子のほうがこわかった。



ホームルームが終わると、サクが机をくっつけてきた。


マルと殿も来た。


シッポは一番後ろの席から動かなかった。

でも、こっちを見ていた。


「で」とサクが言った。


「承認、するの?」


わたしは返事をするかわりに、サクの顔を見た。


「アヤのなぞなぞに答えた佐藤くん。

相互承認の申請、来てるんでしょ。

アヤ、承認するの、しないの」


サクはこういうとき、逃がしてくれない。


「……なんで申請が来てるって知ってるの」


「正解者が出たら、申請するに決まってるじゃん。

続きを言えた人とは相互承認したいって、アヤが書いたんだから」


マルが椅子ごと寄ってきて、ぼそっと言った。


「アヤ、その佐藤くんって、例えばの話の人?」


教室がすっと静かになった。


わたしは手首の上の申請の文字を見ていた。


それから小さい声で言った。


「……例えばの話の人」


三人が同時に顔を見合わせた。


「認めた」と殿。


「アヤが認めた」とマル。


「例えばの話が、ついに例えじゃなくなった」とサク。


「認めてない。例えばの話の人だって言っただけ」


「それ、認めてるんだよ」


サクは急に真面目な顔になった。


「でもさ、アヤ。相互承認したら、個別のやりとりになるでしょ。

ばあやにずっと見られるよ。

弾かれる回数、増えるよ。

減点されたら十八のとき、結婚認めてもらえないかもよ」


冗談の続きみたいな声だった。


でもサクは言いながら、

自分の手首の弾かれた回数のところを、

親指で何度もこすっていた。


わたしは自分の手首を見た。


〈相互承認の申請が届いています〉

〈申請者:佐藤〉


その下に、小さく注意書きがあった。


〈相互承認後も、個別のやりとりで本名は表示されません〉

〈やりとりの内容は、通信適正化の対象となります〉


ばあやにずっと見られる。


減点されるかもしれない。


十八のとき、誰も選ばれないかもしれない。


全部、噂だ。

誰も確かめたことがない。


でも、噂じゃないかもしれない。


減点の数字はどこかに集められる。

集められた数字を、

仕事で毎朝見ている大人たちがいる。


父がその一人なのかどうか。

わたしは一度も聞いたことがない。



わたしはあの夜のことを思い出した。


真っ暗な体育館。


壁の冷たさ。


流れ星に何度も同じお願いをしたこと。


電気が、もう少しだけ、戻りませんように。


あのお願いは、ばあやに聞かれたら、

たぶん止められる種類のお願いだった。


それでも、お願いした。


「……いい」


「何が」


「減点されても、いい」


三人の顔がそろって固まった。


教室の後ろでシッポが、

ノートをとっていた手を止めていた。


サクがゆっくり息を吐いた。


「……アヤって、たまにすごくばかだよね」


「マルにも言われた」


「マルが正しい」


サクはそう言って、それから口の端だけで笑った。


「減点されたら、わたしと一緒に独り身の寮で暮らそ。

わたし、もう百回弾かれてるから、たぶん一緒」


「……やだ」


「なんで!」


マルがむせて、

殿が机に突っ伏して笑った。



その夜、消灯のあと枕に顔を半分うずめたまま、

わたしは、〈承認する〉に触れた。


〈相互承認が成立しました〉

〈佐藤さんとの個別のやりとりが可能になりました〉


手首の上に、

真っ白な新しい画面が開いた。


宛先の欄に、〈佐藤〉とだけ出ていた。


四千二百十一人の佐藤の中の、

たった一人だった。


何を書けばいいのか、わからなかった。


あの夜からずっと、書きたいことがあったはずなのに。

全部ばあやに止められる言葉ばかりだった。


会いたい。

声が聞きたい。

名前が知りたい。


名前が知りたい、と打ちかけて指が止まった。


名前を聞いたら、

わたしも名乗らなきゃいけない。


桐生の綾乃は、この画面にはいない。

白萩のアヤもいない。

ここにいるのは鈴木だけだ。


あの人の前では、もう少し鈴木でいたい。

……ずるい、かな。


カーソルが二十回くらい点滅するのを見てから、

一行だけ書いた。


  はじめまして、ではないですね。


送信前チェックに触れた。


<送信可能>


送信した。


向かいのベッドでサクが、

寝たふりをしたまま、小さく「よし」と言った気がした。


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