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かえします

その夜、寮の部屋で一人で書き込みを開いた。


もう一度最初から読んだ。


かつて、毎朝読まされていた古い文章があります。


毎朝。


鈴木さんだ。


でも、まだ確かめたかった。

これがあの人の書いたものだという、

もう一つだけの証拠が欲しかった。


代筆屋の職業病で、俺は文章を、

意味より先に、形で読む。

どこに無理があるか。

どの語が座り心地悪そうにしているか。


言いたいことを、言わないで言う。

あの人もきっとそうする。


だとしたら、

言いたいことは、書いていないところにある。


「しってる人」だけが、ひらがなだった。

「えいえんに」も、ふつうなら漢字で書く。

開かなくていい漢字をわざわざ開くのは、

頭の字をそろえたいときの常套手段だ。

依頼人の名前を縦に仕込むとき、

俺自身、何度も使った手口だ。


一行目から四行目まで頭の字を拾った。


かえして。


俺は椅子の背もたれにゆっくりもたれた。


あの記録に書いてあった。

布を一枚、預けたままにしています。


会う理由を残しておきたい。

記録を読んだ夜の読み方は、間違っていなかった。


アラタメは文章を横にしか読まない。

代筆屋の客と同じだ。



引き出しを開けた。


いちばん奥の、父の本の隣に、

たたんだハンカチがあった。


返事を書かなければ。


あの夜、言えなかった続きを。


今度は白い光も、寮監の手も、

光の壁も、邪魔をしない。


でも、ただ「かつ結びて」と書くだけでは足りない気がした。


あの人は縦に一つ隠した。

だったら、こっちも縦に一つ隠して返すのが礼儀だ。


代筆屋の仕事だった。


いや、代筆じゃない。


生まれて初めての、自分の手紙だった。


パン一個で、他人の気持ちを、

他人の名前の下に書く。

依頼人に何が言いたいのかを聞いて、

言わないで言う形に組み直せばいい。


依頼人のいない手紙は、勝手が違った。

何が言いたいのかを聞く相手が、

俺しかいない。


〈佐藤〉の下に入る言葉は、

誰の注文でもない。

俺のだ。



一行書いては、消した。

消すたびに頭の字から並べ直した。


消した行が増えるにつれて、

書斎の父の背中を思い出した。


原稿の半分は検閲に止められた。

残りの半分は、止められないように遠回りを重ねて、

とうとう、誰にも意味が通じなくなった。


遠回りは代筆屋の飯の種だ。

でも、遠回りしすぎた手紙は届かない。

そのことを、俺はたぶん、

父の机の横で、いちばんよく覚えた。


アラタメに二回止められた。


<送信不可>

<理由:不適切な表現>

<判定:特定の個人への感情の表明>

<対象:ずっと探していました>


二回目はもっと短かった。


<送信不可>

<理由:不適切な表現>

<判定:再会の約束>

<対象:返しに行きます>


再会の約束。

判定の欄の五文字を、俺は、

採点済みの答案みたいに眺めた。


機械の目にも、これは約束に見えるらしい。

機械に見抜かれる程度には、

俺の文章は正直だったわけだ。


だったら、約束だとわからないように、

約束すればいい。



夜中の二時を過ぎて、ようやくこれだけが残った。


  かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

  えんえんと続く文章ですが、ここまでは言えます。

  しつこく毎晩、読まされたので。

  まだ、その先も言えます。

  すこし時間はかかりますが。


一行目は、答えだ。


かつ結びて。

あの夜、言えなかった続き。


それから、頭の文字を縦に読む。


か。

え。

し。

ま。

す。


かえします。


布は、返します。

返事も、返します。


その先、というのは、方丈記のことだけじゃない。

アラタメには、たぶんそこまではわからない。


送信前チェックに指を置いた。


<送信可能>


ハンドルネームの欄には、

登録したときのまま、〈佐藤〉と出ていた。


送信した。


代筆の手紙は、最後に依頼人が、

自分の指で送る。

俺の仕事はいつも、その一歩手前で終わっていた。


送信に触れた指は、

最後まで、俺の指だった。


それから、書き込みの下に小さく出ている、

〈相互承認を申請する〉のボタンに触れた。


〈相互承認を申請しました〉

〈相手が承認すると、個別のやりとりが可能になります〉


手首の光が消えると、部屋が急に暗くなった。


窓の外、川のずっと下流に、白萩の明かりが、

小さくにじんでいた。


※


次の朝、談話室の画面の前に人だかりができていた。


〈今日の話題〉

〈一位:その先、言えますか(返信五百六件)〉

〈正解者、現る〉


「かつ丼じゃなかった!」


テツが画面を指さして叫んでいた。


「かつ結びて、だって。何それ。聞いたことねえ」


「誰が答えたんだよ」とユウ。


「佐藤。全国に四千人いるらしいぞ」


ユウが腕を組んでうなった。


「……佐藤も、AIなんじゃね」


談話室がどっと笑った。


笑い声が引いたあとで、

二年の誰かがぼそっと言った。


「でもさ、ずるくね。

古い文章なんて、家で習ったやつしか知らねえだろ。

そんなの、なぞなぞじゃなくて家の差じゃん」


今度は誰もうまく笑わなかった。


ずるい、は、たぶん当たっている。

俺が続きを言えたのは、俺の手柄じゃない。

父が毎晩、勝手に読ませたからだ。


俺は画面のいちばん後ろで、

購買のパンを口に詰めこんでいた。


うしろからキンさんが来て、隣に立った。


キンさんは画面だけを見ていた。

俺のほうには一度も目を向けなかった。


キンさんの口は、緑茶のためだけに開いた。


手首をこっそり開いた。


〈相互承認:申請中〉


返事はまだ来ていなかった。


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