作家の息子は作家じゃない
春休みの終わりになると、寮に十二歳がやってくる。
小学校を卒業したばかりの、新しい中学一年生だ。
共住区から親と別れて、無人のバスに乗せられて、
大きすぎる鞄を抱えて、沢渡の寮の玄関に立つ。
四年前の俺たちもそうだった。
入寮初日の夜、廊下のあちこちから、
ぐすぐすと鼻をすする音が聞こえてきた。
毎年の恒例行事だ。
誰も笑わない。
これを笑えるのは四年前の自分の鼻水を、
都合よく忘れた奴だけだ。
寮の廊下はそういう物忘れを許さない程度には、
よく音が響く。
夜中にトイレに起きたら、
廊下のつきあたりの窓のところに、
一年生が一人、膝を抱えて座っていた。
その隣にキンさんがいた。
正座していた。
湯呑みを二つ持っていて、
一つを一年生に差し出していた。
「緑茶。熱いから気をつけろ」
一年生は両手で受け取って、
しゃくりあげながら、一口すすった。
キンさんは自分のぶんをすすって、
窓の外の暗い空を見ながら言った。
「まあ、なるようになる」
一年生はこくんとうなずいた。
うなずきながら、もう一口すすった。
俺はトイレに行くのも忘れて、
廊下の角に立ったまま、
湯気が見えなくなるまでそれを見ていた。
次の日の朝、その話をしたら、ユウとテツが同時に言った。
「キンさん、四年で完全にじいさんになったな」
「十二でじいさんだったんだから、十六なら仙人だろ」
キンさんは朝ごはんの味噌汁をすすりながら、
「仙人じゃねえ」とだけ言った。
※
交流掲示板が開いた四月一日、
男子寮の談話室は、ちょっとした地獄だった。
「女子いた!」
「本当にいた!」
「返事来た! 『はじめまして』って来た!」
「お前、それ自動の挨拶だぞ」
壁の大きな画面に全国の書き込みが流れていた。
ユウは画面の前に陣取って、
一時間かけて最初の一行を書いた。
〈はじめまして。サッカー部です。好きな食べ物は焼きそばパンです〉
送信してからユウは頭を抱えた。
「焼きそばパンは余計だった」
「余計じゃねえよ。大事だろ、あれは」
テツはもう十件くらい書き込んでいた。
全部、筋肉の話だった。
「テツ、女子に筋肉の話してどうすんの」
「女子だって筋肉は好きだろ」
「誰に聞いたんだよ」
「先輩」
先輩の情報はだいたい当てにならない。
夕方になると、テツが急に深刻な顔で談話室のソファに沈みこんだ。
「……なあ。やっぱ女子の書き込み、AIだと思う」
「なんで」
「返事が来ない。俺の筋肉に誰も返事しない。
本物の女子なら、絶対なにか言うはずだろ」
ユウが画面から目を離さずに言った。
「本物の女子だから、返事しないんじゃね」
テツは口を半開きにしたまま固まった。
それからソファのクッションに顔をうずめた。
※
次の日の昼、食堂でテツが、
俺の盆の横に手首をねじこんできた。
「戸川先生」
テツが俺を先生と呼ぶのは、だいたい頼みごとがあるときか、
面白いものを見つけたときだ。
「これ、解ける?」
テツの手の甲の上に、〈今日の話題〉の欄が浮かんでいた。
〈一位:その先、言えますか(返信三百八十件)〉
「女子が出したなぞなぞ。誰も解けねえんだって。
戸川先生、作家の息子だろ。こういうの得意じゃん」
まわりの連中もわらわらと集まってきた。
ユウがテツの肩ごしにのぞきこんだ。
キンさんも昼飯の盆を持ったまま、うしろに立った。
俺はタイトルを見た。
その先、言えますか。
あの夜は、その先まで言えました。
記録の中の一文が頭の中で勝手に重なった。
いや、まさか、と思った。
「その先」なんて言葉はどこにでもある。
テツが指で書き込みを開いた。
古い文章。
毎朝読まされていた。
続きを教えてください。
その真ん中にかぎかっこの一行があった。
「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え」
息が止まった。
電気が戻った瞬間、白い光の中で、
あの人が言った言葉だった。
「な、意味わかんねえだろ」
テツが得意そうに言った。
「みんな、かつ丼って答えてんの。八十件くらい」
「かつ丼以外ありえないよな」とユウが言った。
「女子のなぞなぞには三百八十件。
俺のサッカー部には、自動の挨拶が一件」
誰もそこは笑わなかった。
「戸川先生、どう? わかる?」
全員の目がこっちを向いていた。
俺は口を開きかけて、閉じた。
かつ結びて。
答えは喉のところまで来ていた。
小さいころから父のせいで、喉のところに住みついている言葉だ。
でも、ここで言ったら、
こいつらは明日までに全国に言いふらす。
「……わかんない」
「えー」
テツが本気でがっかりした顔をした。
「作家の息子でも、わかんねえの?」
「作家の息子は、作家じゃないから」
口から出たのは、いつもの軽口だった。
ただ、半分は本音だった。
作家の息子は、作家じゃない。
父のように書くつもりはないし、
父のように書けなくなるつもりもない。
「じゃあ、やっぱAIだ。
作家の息子にも解けない問題を出す女子なんて、いるわけねえもん」
テツは勝手に納得して、盆の前に戻っていった。
ユウも「かつ丼だろ」と言いながら離れていった。
最後まで、キンさんだけが、
盆を持ったまま俺の顔を見ていた。
「戸川」
「なに」
「顔、赤いぞ」
「……昼の焼きそばパンが辛かった」
キンさんはそれ以上は聞かなかった。
ただ「水、飲んどけ」とだけ言って、
自分の盆の前に座って、昼飯を食べはじめた。




