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その先、言えますか

四月一日の朝、寮じゅうの手首が一斉に光った。


〈交流掲示板の利用を開始しました〉


談話室に二階の住人がほとんど全員集まっていた。

パジャマのままの子もいた。

誰も気にしなかった。


「開いた?」

「開いた」

「男子いる?」

「いる。いっぱいいる」

「ほんとに?」


画面の中に知らない名前が、すごい速さで流れていった。


全国の高校二年生の書き込みだった。


〈はじめまして。よろしくお願いします〉

〈女子いますか〉

〈女子ほんとにいる?〉

〈いたら返事ください〉

〈ベンチプレス八十キロ上がりました〉

〈寮の夕飯、今日も牛。三日連続〉

〈女子は焼きそばパン好きですか〉


談話室の全員が画面に吸いこまれたまま、

十秒くらい動かなかった。


最初に口を開いたのは、サクだった。


「……ねえ。

男子の書き込み、半分が筋肉の話なんだけど」


「残りの半分は焼きそばパン」とマル。


「あと、女子いますか、が三割」と殿。


「計算が合ってない」


「合わないの。一つの書き込みに、

筋肉と焼きそばパンと女子いますかが、全部入ってるから」


殿が手首を突き出した。


〈ベンチプレス八十キロ上がったので焼きそばパン食べてます。女子いますか〉


談話室がどっと笑った。


ニュースで見る男子居住区は、

いつも大人の顔をしていた。

整列して、きれいな声で話す男の人たち。


同い年の男子が、

筋肉と、パンと、「女子いますか」で、

できているなんて。


……ちょっとかわいい。

言ったらサクに一生いじられるので、言わない。


画面を流れていく書き込みの中に、こんな一行があった。


〈女子の書き込みって、本当はチャットAIらしいぞ〉

〈まじで?〉

〈先輩が言ってた〉


「……AIだと思われてる」


マルがマフィンをかじる手を止めた。


「こっちから見たら、

男子の書き込みのほうがよっぽどAIっぽいんだけど」とサク。


「筋肉しか学習してないAI」と殿。


殿のひとことで、また談話室がひっくり返った。



ハンドルネームはみんなばらばらだった。


マルは〈牛乳プリン〉にした。

殿は〈殿〉にされそうになって、必死で〈のぞみ〉にした。

サクは〈九条さま〉と打ちこんで、ばあやに止められた。


<登録不可>

<理由:身分・敬称を含む名称>

<対象:九条さま>


「なんで!」


「身分を含む名称、だって」


「わたしの身分、ただの高二なんだけど」


サクは三回打ち直して、最後は〈さく〉で落ち着いた。


わたしは迷うふりを三秒だけしてから打ちこんだ。


〈鈴木〉


「アヤ、ふつう」


「ふつうがいいの」


「何それ。もっと遊べばいいのに」


サクはつまらなそうに言って、また画面に戻った。


ふつうがいい。

家に帰れば、ふつうじゃない名字が、

玄関でわたしを待っている。


寮ではただのアヤ。

画面の中ではただの鈴木。


ただの、が一つ増えるたびに、

肩がちょっとずつ軽くなる。


ためしに、〈佐藤〉で検索してみた。


〈該当:四千二百十一人〉


〈鈴木〉でも検索した。


〈該当:三千九百八十人〉


四千二百十一。

数字を見たとたん、おなかの底がすうっと冷えた。

手首をぱたんと閉じた。


その中の、たった一人。

あの声の、あの佐藤くん。

見つける方法なんて、ひとつもない。


……ひとつも?


向こうだって同じだ。

三千九百八十人の鈴木の中から、

わたしだけを拾う方法なんて、ない。

ない、けど。


※


その夜、わたしは布団の中で手首を開いた。


名前で探せないなら、

向こうに見つけてもらうしかない。


あの人にだけわかるように。

あの人のところまで届くように。


あの人はわたしの名前を知らない。

ハンカチの模様が何の印かも、たぶん知らない。


知らないまま、真っ暗な体育館で、

二時間、声だけで隣にいた。


そういう人を、わたしはほかに知らない。


枕元に図書室で借りた紙の方丈記があった。

茶色く変色した表紙を指でなぞった。


あの夜、わたしが言った最初の一文に、

あの人は続きを返した。


ゆく河の流れは絶えずして。

しかも、もとの水にあらず。


この一文の続きを言える人は、

たぶんこの国にほとんどいない。

端末で調べても、本文は出てこないのだから。


言えるのは、誰かに毎朝、毎晩、

意味もわからないまま読まされて育った人だけだ。

おばあさまは意味を一度も教えてくれなかった。


わたしと、あの人のような。



書いては消して、

消しては書いた。


布団の中が手首の光で青白い。

向かいのベッドから、サクの寝息。

廊下の向こうで、誰かがトイレの水を流す。


ばあやに止められるたびに、

言葉を一つ、遠回りさせた。

遠回りさせすぎて、

自分でも何が言いたいのかわからなくなりかけた。


窓の外がうっすら灰色になるころ、

ようやくこれだけが残った。


〈タイトル:その先、言えますか〉


  かつて、毎朝読まされていた古い文章があります。

  えいえんに、最初の一文でつかえる気がしていました。

  しってる人がいたら、続きを教えてください。

  てがかりは、この一行だけです。


  「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え」


  続きを言えた人とは、相互承認したいです。


タイトルは記録に書いたのと同じ言葉にした。

あの夜は、その先まで言えました。


あの人があの記録を読んでくれていたなら。

この言葉に、もしかしてと思ってくれるかもしれない。


それから、一行目から四行目の頭の文字。


か。

え。

し。

て。


かえして。


布を、返して。

返事を、返して。


もう一度、会いに来て。


送信前チェックに触れた。


手首は震えなかった。


ばあやが動いている基盤のどこかに、

父の会社の名前がある。


父の会社の機械に、

わたしは今、なぞなぞを出している。


そう思ったら、指先がすっと冷たくなった。


<送信可能>


ばあやは縦には読まないらしかった。


気づかなかったのか、

気づいて、見逃してくれたのか。

それはわからない。


わからないまま、送信した。


※


次の日の昼、食堂でサクがわたしの肩をつかんだ。


「アヤ。これ、アヤでしょ」


サクの手首の上にわたしの書き込みが浮かんでいた。


「……何が」


「ハンドルネーム、鈴木。

古い文章。

毎朝読まされてた。

図書室のあの茶色い本のやつでしょ」


サクは声が大きいだけじゃなくて、

こういうときだけ、ものすごく目ざとい。


「……例えばの話」


「例えばの話で、全国に向けてなぞなぞは出さない」


マルと殿が同時に吹き出した。


「で、何これ。誰に向けてんの」


「誰にも向けてない」


「嘘。続きを言えた人と相互承認したいって書いてある。

これ、続きを言える人を探してるんでしょ。

アヤ、その人のこと知ってるんでしょ」


わたしは返事のかわりに、

マルのマフィンを一つ取って口に入れた。

三月の最後の夜、マルが寝落ちする前に焼いていた、

残りのマフィンだった。


「あ、それ今日のいちばん困ってる人の分」


「今、困ってる」


「アヤ、この春休みだけでそれ三回言ったよね」


「今日も困ってる」


マルはため息をつきながら、それでも許してくれた。



書き込みにはもう三百件以上の返信がついていた。


ほとんどが男子からだった。


〈かつ丼〉

〈かつ丼だろ〉

〈かつ丼以外ありえない〉

〈カツが消えた。犯人は俺〉

〈かつて消えた。つまり昔の話〉

〈勝つ! 消えろ!〉

〈これ何の呪文?〉

〈こんな問題出す女子いるわけない。絶対AI〉

〈AIなら答え言えよ〉

〈AIにも答えがわからない問題を出すAI〉


殿が自分の手首を見ながら、肩を震わせていた。


「〈かつ丼〉が、八十件ある」


「八十件」


「男子、全員おなかすいてるの?」


マルが本気で心配していた。


「いいなあ、アヤは」


長い机の向こうから、同じ階の宮内さんが言った。


「わたし、朝から三回書いて、返信ゼロ。

女子いますかって聞いておいて、

いたら返事しないの、なんなの、男子」


笑いながら言っていた。

でも、手首を閉じる手つきが乱暴だった。


「八十件は、かつ丼だよ」


「ゼロよりかつ丼のほうがいい」


言い返す言葉が見つからなかった。


夕方になると書き込みは、

〈今日の話題〉の欄の一番上に上がっていた。


〈今日の話題〉

〈一位:その先、言えますか(返信四百十二件)〉


誰にも解けないなぞなぞ、として。



その夜、わたしはもう一度返信を全部読んだ。


かつ丼。

かつ丼。

AI。

かつ丼。

勝つ。

かつ丼。


かつ結びて、は、

一件もなかった。


佐藤くんは掲示板なんか見るだろうか。


見たとしても、

四百十二件のかつ丼の中から、

この書き込みに気づいてくれるだろうか。


わたしは枕元の方丈記を抱えて目を閉じた。


かつ消え、かつ結びて。


返事はまだ来ない。


かつ丼は、八十件来た。


遅くにすみません

仕事が長引きました泣

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