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自分の字

春休みの男子寮は昼まで静かで、昼から急にうるさくなる。


その春休みは、朝からうるさかった。

朝から、俺の部屋のドアが叩かれたからだ。


「戸川先生、自己紹介、三行でいいから」


「戸川先生、俺のは、ちょっとおもしろい感じで」


「戸川先生、十人まとめたら」


「まとめない」


掲示板が使えるのは、四月一日からだ。

登録だけは先にできるので、

春休みの寮では、白いままの紹介欄が、

あっちこっちの手首の上で光っていた。


机の端に、前払いのパンが積み上がった。

購買は春休みで閉まっているから、

どれも、休みの前に買いだめしてあったやつだ。

袋の日付は、だいたい怪しかった。


書くのは、難しくない。

部活と好きな科目と、休みの日にすること。

本人に三つ聞いて、

三つとも本人よりほんの少しだけ、いい奴に書く。

一件、十分もかからない。



七日目の昼に、ユウが来た。


ユウはパンを二個、机に置いた。

いつもなら、置く前に値切る。

その日は値切らなかった。


「俺のも、頼む」


「三行でいいか」


「任せる」


ユウのことなら聞かなくても三つ書ける。

四年、同じ廊下で暮らしている。


俺は、手首の上で、三行を組んだ。


〈サッカー部で、右の端を走っています〉

〈パスが来ないときは、来たときのことを考えています〉

〈だいたい、来ます〉


ユウは手首の上の三行を、黙って読んだ。

読み終わって、また頭から読んだ。


いつのまにかテツがドアのところにいて、

ユウの肩ごしにのぞきこんでいた。


「うわ、ユウ、かっこいい」


「……かっこいいな」


ユウはそう言って三回目を読んだ。


「これ、いいんだけど」


「うん」


「俺じゃねえな」


俺は言い返す言葉を選んだ。

選んでいるあいだに、ユウが続けた。


「パス来ないとき、俺、晩飯のこと考えてるし」


テツが吹き出した。


ユウは笑わずに、手首を閉じた。

それから、半分だけ冗談の顔で言った。


「なあ。十八で選ばれるとき、

俺、戸川の文章で選ばれんのかな」


「ずるくはねえだろ。パン払ってんだし」とテツ。


「そういう話か?」


「そういう話だろ」


ユウがちょっと笑った。

テツも笑った。

俺も笑うふりをした。


十八でハカリが相手を決める。

そのときハカリが何を読んでいるのかを俺は知らない。

誰も知らない。

もし、手首の上の文章も読まれているのだとしたら、

この寮の何十人かは、

俺の書いた三行で、誰かと結びつけられることになる。


考えないことにしよう、と思った。

考えないことにするのは得意だ。

得意なだけで、うまくいったためしはない。


「やっぱ、自分で書く」


ユウは、机の上のパンを一個だけ取って、ポケットに入れた。


「一個は、相談料な」


「相談、してないだろ」


「した。今、した」


ユウは出ていった。

テツはユウの背中と俺の顔を見比べてから、

ユウのあとを追っていった。



その夜テツの手紙を開いた。


十八で来るパートナーへの手紙だ。

前払いのパンは、とっくに腹の中にある。

春休み中に書く、と約束した。


テツの話ならいくらでも知っている。

朝、誰より先に起きて、廊下で腕立てをすること。

数を数える声が、壁を抜けて俺の部屋まで聞こえること。

寝言でも、たまに数を数えていること。


テツの口ぶりで、一行書いた。


〈はじめまして。テツです。筋肉は、裏切りません〉


二行目でテツの声が消えた。


〈あなたに会う日までに、

もう少しだけ、重いものを持てるようになっておきます〉


うまい。

うまいのが、だめだった。

テツはこういうふうには言わない。

テツなら、何キロまで、と数字を書く。


消してテツの口ぶりに戻すと、

今度は筋肉の話しか残らなかった。

筋肉の話しかない手紙を、

十八の日に初めて会う人に渡せとは、言えない。


テツの声で書けばテツが薄くなる。

俺の声で書けばテツがいなくなる。

代筆屋を四年やって、

こんな当たり前のところでつまずいたことはなかった。


ためしに自分のぶんを開いた。


掲示板の、〈佐藤〉の紹介欄。


一行目で指が止まった。


何を書いてもそれは誰かに頼まれた三行の形をしていた。

本人よりほんの少しだけいい奴。

その本人が誰なのかを、俺は誰にも聞かれたことがない。

自分に聞いたことも、なかった。


紹介欄は白いままだった。


壁の向こうでテツの声がした。

寝言で数を数えていた。

三十二まで数えて止まった。


※


次の朝、食堂でユウが向かいに座った。


ユウは、焼き魚の骨を端から順番に外していた。

サッカー部の連中はなぜか魚の骨を外すのがうまい。


「戸川」


「なに」


「戸川の文章、いいんだよ」


ユウは骨から目を上げなかった。


「いいから、困る」


俺は味噌汁を飲んだ。

ユウは、外した骨を一本皿のふちに置いた。


「で、今日の練習、午後からだってよ」


「春休みも練習あるのか」


「ある。グラウンドの砂、入れ替えるんだと。一年が全部運ぶ」


話はそっちへ流れていった。

流れていったまま、戻ってこなかった。


テツの手紙はその日も書けなかった。

次の日も、書けなかった。


〈佐藤〉の紹介欄も白いままだった。

白いまま、春休みが残り三日になった。


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