今日のいちばん困ってる人
いちごのタルトを一切れ、皿に載せて、屋上に上がった。
マルに頼まれたのだ。
「シッポ、たぶん今日も上にいるから」
屋上の金網のそばに、シッポがいた。
首から古いカメラを提げて、
上流のほう、沢渡のある方角の空に、レンズを向けていた。
「シッポ。マルから」
シッポは振り返って、タルトを見て、
小さく「ありがとう」と言った。
二人で、金網にもたれて、タルトを半分ずつ食べた。
夕方の空は、上流のほうから、だんだん色が変わっていった。
あの空の下のどこかに、佐藤くんがいる。
名前も知らないのに、毎日、思い出す。
名前を知っていたら、きっと、こんなふうには思い出さない。
名前の後ろには、家とか、親の仕事とか、
いろんなものが、ぞろぞろついてくるから。
「毎日、同じ空、撮ってるの?」
「同じじゃない」
シッポは、タルトのいちごを、最後まで残していた。
「毎日、ちがう」
「誰かに見せるの?」
シッポは、カメラのストラップを、指に一回巻きつけた。
それから、いちごを口に入れて、
カメラのファインダーをのぞいたまま、言った。
「……いつか」
シャッターの音が、一回だけ鳴った。
上流の空は、もう、夜の色になりかけていた。
※
春休みの十二日目の夜中、
二階のわたしとサクの部屋で、お菓子会をした。
マルの焼き菓子の、その日の残りを持ち寄って、
布団の上に輪になって座った。
マル、サク、殿、わたし。
シッポは、もう寝ていた。
「で、殿は、マドレーヌの一年生とどうなったの」
サクが、マドレーヌの残りをかじりながら聞いた。
「どうもなってない」
「どうにかなりなよ」
「ならない。女子校だし」
「女子校だから、なるんじゃん」
殿は、布団に顔をうずめて、うー、とうなった。
耳の先が、ジャムのいちごと同じ色になっていた。
「マルは?」
「わたし?」
マルは、スコーンにジャムを塗りながら、
少し考えて言った。
「わたしは、食べてくれる人が好き」
「それ、恋の話?」
「恋の話」
「範囲が広すぎる」
サクが言うと、殿が布団から顔を上げて笑った。
「サクは?」
わたしが聞くと、サクは、
手首をちらっと見てから、すぐに顔を上げた。
「わたしは何もない」
「金城くんからの手紙、まだ来ない?」
「来ない。
別に、待ってないけど」
そう言いながら、サクは、
その夜のあいだに、六回くらい手首を見た。
「サク、さっきから手首ばっかり見てる」
「見てない。時間を見てるだけ」
「時間なら、壁に時計あるよ」
「……壁の時計、遅れてるから」
壁の時計は、遅れていなかった。
サクは、手首を布団の中に押しこんだ。
マルが、ジャムのびんを、サクのほうへそっと押した。
「で、アヤは」
マルが、ジャムのついた指をなめながら、急にこっちを見た。
「佐藤くんは」
全員の目が、こっちに集まった。
「……例えばの話の人だから」
「例えばの話、まだ続いてるの?」
「続いてる」
「どこまで続くの、その例えば」
「……わかんない」
本当に、わからなかった。
例えばの話、にしておけば、
あの人は、誰の息子でもない人のままでいられる。
わたしも、誰の娘でもないわたしのままでいられる。
わたしは、マルのスコーンを一つ取って、口に入れた。
「あ、それ、困ってる人の分」
「今、困ってる」
マルは、じっとわたしの顔を見て、
それから、あきらめたように笑った。
「……じゃあ、いいよ」
※
三月の最後の夜、マルが台所で寝ていた。
オーブンの前の椅子に座ったまま、
エプロンをつけたまま、
腕を組んで、こくりこくりと船をこいでいた。
網の上には、焼きかけの生地が並んでいた。
二週間、毎日だった。
毎日、何十人ぶんも焼いて、
毎日、「一個ずつね」と言って配って、
毎日、誰が困っているのかを見ていた。
「……マル、寝てる」
台所をのぞいたサクが、小さい声で言った。
うしろから、殿と、シッポも顔を出した。
四人で、台所の入り口に並んで、マルの寝息を聞いていた。
「ねえ」とサクが言った。
「今日は、わたしたちで焼こうよ。マルの分」
結論から言うと、ほとんど失敗だった。
サクは、生地を混ぜる勢いが強すぎて、
台所の壁に小麦粉をまき散らした。
殿は、計量カップの目盛りを、
バスケのフリースローみたいな真剣な目で、一ミリずつ測った。
測りすぎて、なかなか先に進まなかった。
シッポは、卵係になった。
割るのは上手だったのに、
殻を入れたかどうかを、最後まで誰にも言わなかった。
わたしは、何もできなかった。
茶道部で、お湯を沸かすくらいはできるけれど、
ホットケーキの焼き方は、知らなかった。
何もできないところを、人にまじまじと見られるのは、
たぶん生まれて初めてだ。
恥ずかしい。
でも、ちょっと楽しい。なんで。
「アヤ、お嬢さまなのに、何もできないの?」
サクが、小麦粉まみれの顔で言った。
「お嬢さまだから、何もできないの」
「開き直った」
家では、わたしが火のそばに立つと、
お手伝いの人が「お嬢さま」と言って、やさしく場所を替わる。
ここでは、サクがお玉の柄で、わたしの手の甲をはたく。
「アヤ、ひっくり返すの早い。まだ」
痛くはなかった。
なんでか、ちょっと、うれしかった。
それでも、ホットケーキは、なんとか四枚焼けた。
一枚目は、真っ黒だった。
二枚目は、生焼けだった。
三枚目は、なぜか三角だった。
四枚目だけ、どうにか丸かった。
オーブンの前で、マルが目を開けた。
台所じゅうの小麦粉と、
小麦粉まみれの四人と、
皿の上の、四枚のホットケーキを見た。
「……何これ」
「マルの分」
サクが、真っ黒な一枚目を差し出した。
マルは、それを受け取って、一口食べた。
それから、二枚目も、三枚目も、一口ずつ食べた。
「……まずい」
マルは、容赦がなかった。
「まずい。焦げてる。生焼け。なんで三角なの」
「殿が測りすぎたから」
「シッポ、これ、殻入ってる」
シッポは、窓の外を見ていた。
マルは、文句を言いながら、
結局、四枚とも全部食べた。
食べ終わってから、皿を見つめて、ぽつりと言った。
「……今日のいちばん困ってる人、わたしだったのか」
「……そうだよ」と、サクが、小麦粉のついた鼻で言った。
マルは、台所の冷蔵庫の奥から、
春休み前に買いだめしていた牛乳プリンを出してきた。
三つしかなかった。
「じゃあ、これは、
今日のいちばん、がんばった人たちの分」
マルは、数え直してから付け足した。
「……殿とシッポ、半分こ」
小麦粉は、夜中までかかって、四人で掃除した。
窓の外は、もう暗かった。
明日から、四月だった。




