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餌付け

感想などお待ちしております。

引き続きお楽しみください。


春休みの女子寮は、だめになる。


廊下は昼まで、誰かのシャンプーと、

誰かの寝ぐせの匂いがする。

終業式の次の朝、

朝ごはんの時間に食堂に来たのは、二階の住人の半分くらいだった。


残りの半分は、昼ごはんの時間に、

パジャマの上にジャージを羽織って現れた。


「アヤ、それ昨日も同じジャージじゃない?」


食堂の長い机の向こうで、サクが言った。


本人は、パジャマのズボンの上から、制服のスカートをはいていた。


「……サク、それ何」


「寒かったから」


「スカートで?」


「手の届くところにあったのが、スカートだったの」


理由になっていなかった。

でも、誰もそれ以上つっこまなかった。

春休みだからだ。


帰省できるのは、盆と正月だけだ。

春休みの二週間、わたしたちは寮で寝て、食べて、また寝る。



マルが焼きはじめたのは、春休みの二日目だった。


調理部の部室の冷蔵庫に、春休み前の実習で余った材料が、

そのまま残っていたらしい。


牛乳と、卵と、小麦粉と、バター。


牛乳と卵は、この国ではやたらと安い。

購買のプリンが三十円なのも、そのせいだ。

だから材料は、使っても使っても、なくならなかった。


「もったいないから」


マルはそう言って、寮の共同の台所で、

マフィンを十二個焼いた。


バターが焦げる一歩手前の匂いが、

廊下をはって、二階の全部のドアのすきまに入りこんだ。

家の台所の匂いとは、ぜんぜん違う。

家の台所は、いつも、おだしと、生けた花の匂いがする。


最初に台所をのぞいたのは、わたしとサクと殿の三人だった。


「……何、この匂い」


「マフィン」


「マル、天才?」


「もったいないから焼いただけ」


マルは、焼きたてのマフィンを網の上に並べながら、

いつもの丸い声で言った。


「一個ずつね。残りは、今日のいちばん困ってる人の分」



三日目には、台所の前に十人並んでいた。


マルは、今日はスコーンを焼いていた。

牛乳をたっぷり入れた、ほろほろのやつだ。


「マル先輩、わたしもいいですか」


「いいよ。一個ずつね」


一年生が、両手でスコーンを受け取って、

拝むような顔で帰っていった。


一週間たつころには、

焼き上がりの時間になると、二階の住人のほとんどが、

台所の前の廊下に、なんとなく集まってくるようになった。


誰も約束していないのに、

みんな、焼き上がりの時間を知っていた。


匂いで、わかるのだ。


「これ、餌付けだよね」


廊下の列の後ろで、殿がぼそっと言った。


「わたしたち、完全に餌付けされてる」


「殿も並んでるじゃん」


「殿って言うな。並んでるけど」



二階の端の部屋の高二の先輩が、廊下の列を見て、

「ここ、共同の台所なんだけど」と言った。


マルは「すみません。片づけは、毎日してます」と頭を下げて、

網の上の一つを差し出した。

先輩は受け取らずに、自分の部屋に戻っていった。


次の日から、先輩は、焼き上がりの時間をずらして台所を使った。

マルはその時間に、先輩のぶんのお湯を沸かしておいた。

先輩は、そのお湯を捨てて、自分で沸かし直した。


※


困ったことが起きたのは、春休みの九日目だった。


マルの「困ってる人の分」が、

寮じゅうに知れ渡ってしまったのだ。


その日の焼き上がりは、マドレーヌだった。

貝の形の、バターの匂いがするやつだ。


マルが網の上にマドレーヌを並べ終わると、

列の先頭にいたサクが、急にしおれた顔をした。


「マル。わたし、今、すごく困ってる」


「何に」


「宿題が、一行も終わってない」


「それは毎年でしょ」


マルは、まばたきもしなかった。


「毎年困ってる人は、困ってるうちに入らない」


「ひどい」


サクが列から外されると、

今度は、殿のうしろに並んでいた一年生が、一歩前に出た。


「あの、マル先輩。

わたし、殿先輩の分のマドレーヌを、

殿先輩に渡したくて困ってます」


「本人が後ろにいるけど」


殿が、一年生のすぐうしろで、困った顔をしていた。


「本人に直接渡したら、だめなの?」


「直接は、恥ずかしいので」


マルは、一年生の顔と殿の顔を見比べて、

一年生の手にマドレーヌを二つ乗せた。


「一個は自分で食べな。

もう一個は、がんばって直接渡しな」


一年生は真っ赤になって、

振り返って、殿の手にマドレーヌを押しつけて、走って逃げた。


殿は、手の中のマドレーヌを、両手で持ち直した。


「……殿、顔赤いよ」


「赤くない。オーブンの熱」


台所の前の廊下は、オーブンからずいぶん遠かった。



列の一番うしろに、見覚えのある背中があった。


紺色のカーディガン。

ひっつめた白髪まじりの髪。


寮監の先生だった。


先生は、わたしたちと目が合うと、

咳ばらいを一つして、

「見回りです」と言った。


見回りの人は、ふつう、列には並ばない。


マルは何も聞かずに、

いちばん形のきれいなマドレーヌを、先生の手に乗せた。


先生は「……規則上、問題はありません」と言って、

マドレーヌを持ったまま、見回りの続きに戻っていった。


角を曲がる前に、先生がマドレーヌを、

カーディガンのポケットにそっとしまうのが見えた。


※


春休みの十日目に、母からメッセージが来た。


〈アヤ、元気? 春休み、寮でだらけてない?〉

〈佐野のおばあちゃんが、いちごをたくさん送ってくれたの〉

〈アヤの分も、寮に送っておいたからね〉

〈おばあさまには内緒よ〉

〈あの人、いちごは朝ごはんの前に食べるものじゃないって怒るから〉


母のメッセージは、いつもこんな感じだ。


佐野のおばあちゃんは、母の母だ。

母の実家は、ふつうの家で、

ふつうに、いちごの季節にいちごを送ってくる。


桐生の家に嫁いできて、もう二十年近くたつのに、

母はいつまでたっても、あの家の中で、

どこかお客さんみたいな顔をしている。

おばあさまと父のあいだで、

いつもにこにこして、うまく間を取っている。


寮で、パジャマにジャージで平気でいられるのは、

たぶん母に似たのだと思う。


家では、ジャージは着ない。

朝ごはんの前に方丈記を読んで、背筋を伸ばして、

お客さまには「桐生の綾乃でございます」と頭を下げる。

ここでは、二日同じジャージでも、

「アヤ、それ昨日も」で終わる。

どっちも、わたしの服だ。

たぶん。


母のメッセージに、父のことは一行も出てこない。

いつものことだ。

父はたぶん、いちごが届いたことも知らない。


〈だらけてない〉と返した。


その日の夕方、寮にいちごが一箱届いた。


わたしはそれを、そのまま台所に持っていった。


「マル。これ、使って」


「……いいの?」


「わたし一人じゃ食べきれないし」


マルは箱を開けて、いちごを一粒ずつ目で数えていた。


真っ赤で、粒がそろっていて、

ひとつひとつが、ていねいに並べてあった。


「このいちご、すごく大事に詰めてある」


「おばあちゃんが、そういう人なの」


マルは、うなずいた。

それから、いつもより真剣な顔で、

エプロンのひもを結び直した。


その夜、マルは、いちごのタルトを焼いた。


台所の前には、春休みでいちばん長い行列ができた。

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