第99話 ミレナの帰郷
ルカが文を出してから、十日余りが過ぎた頃、村の入り口に、一台の質素な馬車が止まった。降りてきたミレナは、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。
「……変わらないね、潮の匂いは」
震える声で、そう呟いた。白髪の交じった髪が、海風に揺れていた。
◇
「本当に、来てくれたんだ」
ルカが、駆け寄って言った。
「文を読んだ瞬間、迷いはなかった」
ミレナは、崖の方角を見上げながら、静かに答えた。
「二人の番人が、共鳴を重ねる。……それがどういうことか、私は、誰よりもよく知っている」
その言い方に、ノアの背筋が、微かに強張った。
村の広場を通りかかった年老いた漁師が、ミレナの顔を見て、はっと足を止めた。
「……ミレナ、なのか」
「お久しぶりです、伯父さん」
老人の目に、驚きと、それ以上に複雑な色が浮かんだ。何十年も帰らなかった者への、懐かしさと、戸惑いが入り混じっていた。
◇
村長の家に集まったノア、ハンナ、ティナ、ルカ、そしてリオを前に、ミレナは、長い沈黙の後、口を開いた。
「私が、まだこの村に住んでいた頃――四十年近く前のことだ」
「四十年」
ハンナが、息を呑んだ。
「あの崖の祠には、昔から、力を感じ取る子が、時折生まれた。今のリオのようにね。……あるとき、神殿の上の方の人間が、一つの考えに取り憑かれた」
リオが、身を固くして、ミレナの言葉を待った。
◇
「複数の番人を、一箇所に集めれば、境をもっと大きく、もっと自在に開けるのではないか、と」
ミレナの声は、静かだったが、その奥に、抑えきれない痛みが滲んでいた。
「三人の子どもが、あの祠に集められた。……その中の一人が、私の姉だった」
ノアは、言葉を失った。ハンナが、そっとミレナの手を握った。
「安全な手順など、誰も知らなかった。ただ、大きな力が欲しいという、大人たちの都合だけがあった。当時九つだった私は、ただ、大人たちに言われるまま、姉が連れて行かれるのを見ていることしかできなかった」
◇
「何が、起きたんですか」
ノアが、震える声で尋ねた。
「境が、制御を失って、暴れた」
ミレナは、目を閉じた。
「崖の一部が崩れ、祠は焼け、二人が命を落とした。……姉は、生き延びたけれど、あの日以来、二度と、以前のようには話せなくなった。十年後、静かに、息を引き取った」
村長の家に、重い沈黙が落ちた。リオの母親が、我が子を、強く抱き寄せた。
◇
「神殿は、この出来事を、なかったことにした」
ミレナは、静かに続けた。
「失敗を認めれば、自分たちの企てそのものが裁かれる。……だから、記録を焼き、関わった者たちに口止めをした。この村が、よそ者に固く閉ざされているのも、子どもを腫れ物のように扱うのも、根はそこにある。誰も、あの日のことを、口に出せなかっただけなんだ」
「私が神殿の記録官になったのは」
ミレナは、続けた。
「本当は、姉に何が起きたのか、いつか正式な記録で確かめたかったからだ。……でも、見つからなかった」
「先に、教会が、燃やしていたから」
ルカが、静かに言った。
「ええ。……あの神殿の記録保管室で見つかった、焼け焦げた紙片――『境の番人は……』という、あの断片の意味が、これで、ようやく一つに繋がった」
◇
「じゃあ、僕とリオが、同じことをしたら」
ノアの声が、掠れた。
「同じことが、起きるかもしれない、ってことですか」
ミレナは、ノアとリオを、順に、まっすぐに見つめた。
「起きるかどうかは、分からない。……あの日と、今とでは、違うこともある。お前たちには、安全な進め方を探ろうとする、仲間がいる。あのときの子どもたちには、それすらなかった」
「それでも」
「それでも、危険は、なくならない。……だから、私はここに来た。同じ轍を、二度と踏ませないために」
リオが、震える声で、ぽつりと言った。
「僕、姉さんみたいには、なりたくない」
「ならないよう、みんなで、確かめながら進もう」
ノアが、リオの肩に、そっと手を置いた。
◇
その夜、村の外れにある小さな墓標の前で、ミレナは、長い間、膝をついていた。姉の名が刻まれた、古い石だった。ノアも、少し離れた場所から、静かにその背中を見守った。
「怖くないの」
隣に座ったティナが、小声で尋ねた。
「本当は、少し」
ノアは、正直に答えた。
「でも、知らないまま進むよりは、ずっといい。……ミレナさんが、教えてくれたから、僕らは、あの人たちと同じ間違いをせずに済むかもしれない」
海鳴りの音が、遠くから、静かに響いていた。過去の悲しみの上に、今度こそ違う道を見つけようという決意が、ノアの中で、確かな形を取り始めていた。
◇
翌朝、ミレナが村を歩くと、昨日とは違う目で見る者たちがいた。
「あんたが、生きていたなんて」
漁師の女房の一人が、目に涙を浮かべながら、ミレナの手を取った。
「うちの母も、ずっと気にしてたんだよ。あの後、村を出て行った子のこと」
「迷惑を、かけました」
「迷惑なんかじゃない」
女は、首を振った。
「あの日のことを、誰も、口にできなかった。……あんたが戻ってきて、やっと、少しだけ、息ができる気がするよ」
その言葉に、リオの母親も、隣で静かに頷いた。長年、閉ざされていた村の空気が、ほんの少しだけ、緩んだ瞬間だった。
◇
昼過ぎ、村長の家に、ルカ宛の急報が届いた。境界事務局のアルバンからの文だった。
「宰相府の正式な迎えの一団が、動き出したそうだ」
ルカが、文面を読み上げながら、表情を曇らせた。
「思っていたより、早い。……あと数日のうちに、この村へ来る」
ノアとリオが、顔を見合わせた。過去の真相を知り、進むべき道の輪郭が見え始めたばかりだった。だが、それを確かめる時間は、もう、ほとんど残されていなかった。
「大丈夫」
ノアは、リオに、そして自分自身に、言い聞かせるように言った。
「一人で全部背負おうとしなければ、きっと、なんとかなる。……ミレナさんも、僕らも、ちゃんと繋がってるから」
リオが、小さく、けれど確かに頷いた。窓の外では、崖の上の祠が、夕暮れの光を受けて、静かに佇んでいた。




