第100話 十字路
アルバンの急報から、三日後の朝。
崖下の道に、土埃を上げて、一団の騎馬が現れた。先頭に、あの平板な声の使者がいた。今度は、供の官吏だけでなく、槍を携えた兵が、十人近く付き従っていた。
「本日をもって、リオを、正式に王国の管理下に置く」
使者の声は、以前よりも、いっそう硬かった。
「抵抗は、無用に願います」
◇
村人たちが、家の戸口に集まり、青ざめた顔で、その光景を見つめていた。リオの母親が、我が子を抱きしめたまま、崩れ落ちるように膝をついた。
「待ってください」
ノアが、二人の間に、体を割り込ませた。
「まだ、話し合いの途中のはずです。……アルバンさんの、境界事務局からも」
「境界事務局には、この件の管轄がない」
使者は、感情のない声で、遮った。
「宰相閣下の裁可は、既に下りている。……これ以上、時間を、かけるつもりはありません」
兵たちが、一歩、前に出た。ティナが、ノアの腕を、強く掴んだ。
「やめて」
ノアが、両手を広げ、リオと兵たちの間に立ちはだかった。
「連れて行くなら、僕も、一緒に連れて行ってください」
「坊やの出る幕ではない」
使者が、静かに、しかし冷たく言った。合図に、兵の一人が、槍の柄で、地面を、軽く突いた。乾いた音が、広場に響いた。村人たちの間から、悲鳴に似たどよめきが上がった。
◇
「待て」
その声は、崖の上の道から、響いてきた。
馬を駆けさせてきたガレンが、土煙を上げながら、二人の間に割り込むように、馬を止めた。手には、封蝋の押された書状が握られていた。
「この一帯における、この件に関する裁定は、いったん保留とする。……メルヴィン領主の名において」
「何を、根拠に」
使者の眉が、初めて、動いた。
◇
「この地の異能の子と、深く関わりのある少年、ノアは、我が領主の民だ」
ガレンは、書状を、使者に突きつけた。
「そのノアが直接この件に関わっている以上、我が領も、無関係とは言えない立場にある。……加えて、境界事務局と宰相府の間で、管轄そのものが、正式に係争中と聞いている。決着のつかぬ案件に、力ずくで手を出せば、後々、宰相閣下の名にも、傷がつくことになりかねん」
その理屈は、脅しではなく、あくまで手続き上の正論として、静かに、しかし重く積み上げられていた。
◇
使者は、しばらく、押し黙っていた。兵たちも、動きを止めたまま、指示を待っていた。
「……メルヴィン卿は、なぜ、この件に」
「我が領地の名を上げる駒には、それだけの値打ちがある」
ガレンは、皮肉げに笑った。かつて、ノアに向けて放ったのと、同じ台詞だった。だが、その声には、あの頃とは違う響きが混じっていた。
「もっとも――理由は、それだけでもない」
ガレンの視線が、一瞬、ノアの方を向いた。それ以上、多くは語らなかったが、ノアには、その意味が、確かに伝わった。
◇
「正式な裁可を得るまで、この場で、いっさいの実力行使を控えていただきたい」
ガレンの声には、有無を言わせぬ強さがあった。
「もし、それでも強行するというなら、私はこの目で見た一部始終を、事実として、然るべき筋にすべて報告させていただく」
使者は、長い沈黙の後、部下に、退くよう、短く指示を出した。
「……本国の裁可を、仰いだ上で、改めて参ります」
そう言い残し、一団は、来た道を、引き返していった。
◇
土煙が収まった後、村に、安堵のどよめきが広がった。リオの母親が、泣き崩れながら、我が子を、強く抱きしめた。
「ありがとう、ございます」
ノアが、馬から降りたガレンに、深く頭を下げた。
「まだ、終わっていない」
ガレンは、静かに言った。
「時間を稼いだだけだ。……だが、その時間を、無駄にはするなよ」
ハンナが、ガレンに歩み寄り、静かに頭を下げた。
「あんたが、こうして駆けつけてくれるとはね」
「村で、あんたの家を、何度も家探しした男だ」
ガレンは、自嘲するように、小さく笑った。
「礼を言われる筋合いじゃない」
「それでも、来てくれた。……それだけで、十分だよ」
ハンナの言葉に、ガレンは、何も言い返さなかった。ただ、少しだけ、目を伏せた。
ミレナとルカも、安堵の表情を浮かべながら、互いに顔を見合わせた。かつて疑いの目でノアを追い詰めた男が、今は誰よりも先に、盾になって立っている。その巡り合わせに、ノアの胸が、静かに熱くなった。
◇
その夜、崖の上から、遠く海を見下ろしながら、ノアは、リオと並んで座っていた。
「助かったんだよね、僕」
リオが、小さな声で言った。
「今は、ね」
ノアは、正直に答えた。
「でも、ガレンさんの言う通り、これで終わりじゃない。……次に、僕らがどう動くか。それが、本当の分かれ道になる」
海風が、二人の間を、静かに吹き抜けていった。買い取った猶予の重さを噛みしめながら、ノアは、これから進むべき道を、静かに見つめていた。
◇
その晩、境の樹越しの枠を開いたノアから、今日の顛末を聞いたキョウジュたちは、しばらく、言葉を失っていた。
「間一髪だったんだな」
キョウジュの声には、安堵と、それ以上の緊張が滲んでいた。
「ガレンさんが、来てくれなかったら」
「うん」
ノアは、素直に頷いた。
「でも、ガレンさんも言ってました。時間を稼いだだけだって。……次に、僕らがどう動くかで、全部が決まるって」
「その通りだ」
キョウジュの声が、静かに、しかし引き締まった。
「こちらでも、できる限りの準備を進めておく。……向こうの動きが落ち着くまで、油断はできない」
ソラの声も、静かに続いた。
「私も、これまでの記録すべてを、もう一度洗い直します。……次の一手を、間違えないために」
枠越しの声が、いつもより、少しだけ、力強く感じられた。二つの世界が、同じ危機に向けて、確かに動き出していた。
枠を閉じた後も、ノアは、しばらく、その場から動けなかった。ミレナから聞いた過去の悲劇、ガレンが稼いでくれた時間、そして、まだ見えない次の一手。すべてが、重なり合って、ノアの肩にのしかかっていた。
それでも、独りではなかった。両方の世界に、共に考えてくれる仲間がいる。その事実だけが、今のノアにとって、何よりの支えだった。




