第101話 断ち切るか、繋ぐか
ガレンが時間を稼いでから、四日後。
村長の家に、今度は兵を連れない、一人の文官が訪れた。手にしていたのは、剣ではなく、宰相府の印が押された書状だった。村長、ハンナ、ノア、リオの両親が、緊張した面持ちで卓を囲んだ。
「新たなご提案を、持って参りました」
◇
「もう、力ずくのやり方はいたしません」
文官は、静かに書状を広げた。
「リオ殿を、王国の正式な保護のもと、一元的に管理いたします。……崖の祠で四十年前に起きた出来事は、我々も把握しております。複数の番人が、まとまりなく力を重ねようとした末の、悲劇だったと」
その一言に、村長の家の空気が、凍りついた。ハンナが、ノアの方を、そっと見た。ミレナから聞いた話が、こんな形で外へ漏れ、利用されるとは、誰も思っていなかった。
「なぜ、それを」
ノアが、思わず尋ねた。
「境界事務局の報告書に、記載がございました。……宰相府と管轄を争う以上、あちらも、詳細を包み隠さず提出せざるを得なかったのでしょう」
文官は、淡々と答えた。アルバンが正々堂々と提出した記録が、こんな形で刃に変わるとは、皮肉としか言いようがなかった。
◇
「同じ過ちを、二度と繰り返さぬために。……番人という存在は、本来、国が一元的に管理してこそ、安全に守られるものです」
文官の声は、穏やかだった。だからこそ、恐ろしかった。
「ノア殿との関わりも、以後は、正式な監督のもとでのみ許可されます。……勝手な共鳴の試みは、二度目の悲劇を招きかねない、危険な行為ですから」
リオの母親が、震える声で尋ねた。
「それは……もう、二人を、会わせないということですか」
「安全のため、と申し上げているのです」
村長が、低く唸った。「安全」という言葉が、これほど重く冷たく響くとは、誰も予想していなかった。
ハンナが、静かに口を開いた。
「安全と、自由を、天秤にかけろと言われているようなものだね」
文官は、その言葉には、何も答えなかった。ただ、返答の期限を三日後と告げ、静かに一礼して去っていった。
◇
その夜、崖の上で、ノアとリオは、並んで座っていた。
「僕、少しだけ、思っちゃったんだ」
リオが、膝を抱えたまま、ぽつりと言った。
「あの人たちの言う通りにすれば、もう、怖い思いをしなくて済むのかなって。……ちゃんと管理してもらえば、また誰かが死んだりしないのかなって」
ノアは、すぐには答えなかった。海風が、二人の間を、静かに吹き抜けていった。
◇
「ヨナスさんのことを、覚えてる?」
しばらくして、ノアが、静かに言った。
「口を閉じて、独りで、誰にも本当のことを話さずに生きた人。……あの人は、確かに、生き延びた。でも、幸せだったとは、言えなかった」
「僕の母さんは、逆だった。独りで抱え込んで、繋がりを断ち切ろうとして、体を壊して死んだ」
「二人とも、繋がりを、諦めたんだ」
◇
「今度のあの人たちの話も、似てる気がするんだ」
ノアは、拳を、そっと握った。
「危ないから、繋がりを断ち切りなさいって。……でも、それは、本当に僕らを守るためじゃない。ただ、扱いやすくしたいだけなんじゃないかって」
リオは、しばらく黙り込んでいた。
「怖いんだ、僕」
「うん」
「でも、あんな風に、誰にも本当の僕を知られないまま、管理されるだけの暮らしは……もっと、怖いのかもしれない」
リオの声は、まだ震えていたが、その奥に、小さな芯が見え始めていた。ノアは、何も言わず、リオの肩に、そっと手を置いた。
◇
「いっそ、二人とも、力を捨てられたら」
リオが、ぽつりと呟いた。
「感じないふりじゃなくて、本当に、何も感じない普通の子どもになれたら……こんなふうに、狙われることも、なかったのかな」
ノアは、その問いを、しばらく胸の中で転がした。
「考えたことが、ないわけじゃない」
正直に、そう答えた。
「でも、力を捨てるってことは、キョウジュたちとの繋がりも、リオと今こうして話せてることも、全部、なかったことにするってことだと思う。……それは、僕には、できない」
「そっか」
リオは、小さく笑った。
「僕も、本当は、できないと思う。……ノアと、こうして話せるようになってから、初めて、独りじゃないって思えたから」
◇
同じ夜、遠く離れた研究室にも、一本の電話が鳴った。
「一週間、経ちましたが」
蒲生の声は、以前と変わらず平板だった。
「ご決断は、いただけましたか」
黒川は、受話器を握りしめた。工藤と美緒が、固唾を呑んでその横顔を見守っていた。
「装置を渡すことも、接続を断つことも、私たちにはできません」
「では」
「時間を、もう少しだけください。……私たちにも、まだ、考えるべきことが残っています」
蒲生は、しばらく沈黙した後、静かに告げた。
「猶予は、あと三日です。それ以上は、こちらとしても、動かざるを得ません」
◇
電話を切った後、黒川は、深く息を吐いた。
「断ち切れば、楽になるんでしょうか」
美緒が、震える声で言った。
「楽には、なるかもしれない」
黒川は、静かに答えた。
「だが、それで守れるのは、私たちの安全だけだ。……ノア君たちが、今どんな決断を迫られているか、想像してみてくれ」
工藤が、拳を握りしめた。
「向こうも、同じ問いを、突きつけられてるってことか」
楓太が、いつになく静かな声で、口を挟んだ。
「安全と、繋がりと。……どっちも大事なはずなのに、どうして、選ばなきゃいけないんだろうな」
誰も、その問いに、すぐには答えられなかった。
◇
「繋がりを断てば、安全になる。独占されれば、安定する」
黒川は、窓の外を見上げながら、ゆっくりと繰り返した。
「どちらも、もっともらしい言葉だ。だからこそ、簡単には流されたくない」
柳瀬が、静かに頷いた。
「エレナさんも、ヴェルナーも、簡単な答えに飛びついて、大切なものを失った。……私たちは、同じ轍を踏まないようにしないと」
その夜、二つの世界は、それぞれの場所で、同じ問いの前に、静かに立ち尽くしていた。断ち切るか、繋ぐか――答えは、まだ、どちらの手にも握られていなかった。
けれど、崖の上でリオが呟いた「独りじゃない」という一言と、研究室で誰かが漏らした「同じ轍は踏まない」という一言は、遠く離れていながら、確かに同じ方向を向いていた。二つの世界が、まだ言葉にならない答えへと、少しずつ近づいていくのを、夜の静けさだけが、静かに見守っていた。




