第98話 共鳴が重なるとき
リオの熱は、翌朝には、すっかり引いていた。
「もう、平気」
寝床の上で体を起こしたリオが、照れくさそうに笑った。その顔色は、ノアが最初に崖で会った日よりも、ずっと血の気が戻っていた。
「無理は、しないで」
ノアが言うと、リオは、素直に頷いた。母親が、その様子を見て、ようやく肩の力を抜いたのが分かった。祖母が、粥の入った椀を運んできながら、リオの頭を、そっと撫でた。
「怖い思いを、させちまったね」
「大丈夫。……ノアが、いてくれたから」
その一言に、祖母の目に、また涙が滲んだ。ノアは、その場に居合わせたティナと顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
リオが熱に浮かされていた、その同じ晩――遠く離れた研究室でも、一つの発見が、静かに進んでいた。
「見てください」
ソラの声に、黒川たちは、モニターの前に集まった。昨夜、リオが高熱に見舞われた時間帯の記録だった。
「ノアさんの共鳴反応と、もう一つの反応が、ごく短い間ですが、重なっています。……ノアさんが、リオさんの手を握った、あの瞬間です」
波形が、画面に映し出された。二つの異なる揺らぎが、一瞬だけ、ぴたりと重なり合い、強く跳ね上がっていた。
「間違いない」
黒川が、身を乗り出した。
「あの日の、聖具の間での一時拡大と、同じ形だ。……仮説じゃなく、実際に、起きていたんだ」
工藤が、蒲生の一件で沈んでいた顔を、束の間、忘れたように、画面に見入っていた。この発見だけは、誰にとっても純粋な希望だった。
「これ、ノアに伝えるか」
「伝える。……ただし」
黒川は、言葉を選んだ。
「可能性と、危険は、必ずセットで伝える。片方だけを渡すのは、あの子に、フェアじゃない」
◇
その夜、宿で境の樹越しの枠を開いたノアに、ソラが、その発見を伝えた。
「ノアさんと、リオさんの共鳴が、重なった瞬間があったようです。……重なると、境の反応は、一人のときよりずっと大きくなります」
「それって」
ノアの声が、わずかに上ずった。
「二人で、力を合わせれば、もっと大きく、境を開けるかもしれない、ってことですか」
「可能性はあります」
キョウジュの声が、慎重に応じた。
「だが、まだ理論の段階だ。……制御を誤れば、ヴェルナーのときの比じゃない規模で、不安定になるかもしれない」
その一言に、部屋の空気が、張りつめた。隣に座っていたハンナも、ルカも、息を呑んだのが分かった。
◇
「危険なんですね」
ノアは、静かに、しかしはっきりと言った。
「はい」
ハンナが、隣で、ノアの肩に、そっと手を置いた。
「大きな希望と、大きな危険が、同じ一つのことの、裏表なんだね」
「母さんは、独りで閉じようとして、体を壊した」
ノアは、膝の上の拳を、強く握った。
「ヴェルナーは、独りで、無理やり開こうとして、自滅した。……僕とリオが、同じことを、二人分の大きさでやったら、どうなるか」
その先を、口にすることが、怖かった。
◇
「だからこそ、慎重に行こう」
キョウジュの声が、静かに、しかし力強く響いた。
「安全なやり方が見つかるまで、絶対に、二人だけで、勝手に試そうとしないでくれ。……エレナさんのときも、ヴェルナーのときも、独りで、あるいは急いで動いたことが、悲劇につながった」
「分かってます」
ノアは、深く頷いた。
「僕は、母さんにも、ヴェルナーにも、なりたくない」
その言葉に、ルカが、静かに口を開いた。
「境界の綻び目については、ミレナさんが、俺よりずっと詳しい。……この話、彼女に相談してみないか。何か、古い記録に、手がかりがあるかもしれない」
「頼めるか」
アルバンの声も、枠の向こうから届いた。
「境界事務局としても、この可能性は、正式に把握しておきたい」
ルカが頷き、その場で、ミレナへ宛てた文を書き始めた。羊皮紙に走らせる筆の音だけが、しばらく、部屋に響いた。
◇
枠の向こうの声が途切れた後も、ノアは、しばらく、月明かりの下に座り込んでいた。
大きく開いた境の向こうに、いつか本当に、キョウジュたちと直接会える日が来るかもしれない。その想像は、これまで感じたどんな希望よりも、まぶしかった。
けれど同時に、母が命を削った理由も、ヴェルナーが崩れ落ちた理由も、この手の中にある同じ力から生まれたことを、ノアは、忘れていなかった。
翌朝、リオの家を訪ねると、リオが、崖の方角を見つめながら、ぽつりと言った。
「もし、僕らが力を合わせたら、遠くへ、逃げられるのかな」
その声には、隠しきれない期待が滲んでいた。ノアと違い、リオはまだ、自分の力を「使いこなす」ということの怖さを、身をもって知らない。
「まだ、分からない」
ノアは、慎重に、しかし優しく答えた。
「でも、急がない。……危ないことは、しない。二人で、ちゃんと確かめてから決めよう」
リオは、少し不満げな顔をしたが、やがて、小さく頷いた。
◇
宿に戻る道すがら、ティナが、隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「二人で力を合わせたら、大きく境が開くかもしれない……そんな話、聞いたら、誰だって、飛びつきたくなるよね」
「うん」
「でも、ノアは、飛びつかなかった」
ティナは、少し驚いたように、ノアの横顔を見た。
「前のあんたなら、絶対、すぐにでも試したいって言ってたと思う」
「王都で、失敗したから」
ノアは、静かに笑った。
「勢いだけで動いて、みんなを、危ない目に遭わせた。……あの経験がなかったら、今も、同じことをしてたかもしれない」
「成長したね」
ティナが、からかうように、けれど本当に嬉しそうに言った。ノアは、少し照れくさくなって、視線を、海の方へ逸らした。
「それに、リオのことも、まだ、よく分かってない。……あの子がどんな子で、何を怖がって、何を望んでるのか。それを知らないまま、大きな賭けに出るのは、違う気がする」
ティナは、うんうんと頷きながら、聞いていた。
波の音だけが、しばらく、二人の間を満たしていた。この静けさもまた、いつまで続くか分からない。それでも今は、この一歩ずつの確かめ合いを、大切にしたいと、ノアは思った。
海風が、崖の上を、静かに吹き抜けていった。王国の迎えが来るまでの時間は、もう、そう長くは残されていなかった。




