第97話 嗅ぎつけられた
研究室の扉が、控えめにノックされたのは、午後の講義が終わったばかりの時間だった。ソラが検知した微弱な共鳴反応の解析に、全員が没頭していた矢先のことだった。
「黒川雄一朗さんの研究室で、間違いありませんか」
戸口に立っていたのは、灰色のスーツを着た、四十代半ばの男だった。名刺を差し出す仕草には、隙がなかった。
「内閣府所轄、特別調査室の蒲生と申します」
黒川の背筋が、微かに強張った。数日前、大学院時代の同期からかかってきた、あの電話を思い出したのだ。妙な問い合わせをしている連中がいる――あれは、前触れだったのだ。
◇
「アポイントは、いただいていないと思いますが」
黒川は、努めて平静な声で言った。
「急な訪問で、申し訳ありません。ですが、悠長に構えていられる話でもないので」
蒲生は、そう言いながら、部屋の中を、値踏みするようにゆっくりと見渡した。壁一面のモニター、複雑に配線された機材の群れ、そしてその奥に鎮座する試作機。視線が試作機の上で止まった、その一瞬だけで、部屋の空気が変わった。工藤が、椅子から腰を浮かせかけ、美緒がとっさに一歩、機材との間に体を入れた。
「先生方が、長年、説明のつかないエネルギー反応を追いかけてこられたことは、把握しております。……そしてここ最近、その反応が、以前より活発になっていることも」
「何を、根拠に、そんなことを」
美緒が、思わず声を上げた。蒲生は、表情を変えなかった。
「根拠は、申し上げられません。ただ、我々の仕事は、国内で観測される未知の異常現象を、把握し、必要であれば管理することです。……大学からも、退職された経緯について、簡単な照会はさせていただきました」
その一言に、黒川は、拳を握りしめた。自分の身辺まで、すでに調べ上げられている。
◇
「管理、というのは」
黒川が、静かに問うた。
「具体的には、二つの道があります」
蒲生は、指を二本立てた。
「一つ。装置一式と、これまでの研究記録すべてを、当室に提出していただく。以後は、国の管理下で、安全性を検証しながら研究を継続していただく形になります。設備も、予算も、こちらで用意します」
魅力的に聞こえる言葉を、蒲生は、抑揚のない声で読み上げるように言った。
「もう一つは、接続を、完全に遮断していただく。……なんであれ、あちら側と、繋がっているのであれば、の話ですが」
その言葉に、部屋の空気が、凍りついた。楓太が、机の下で、拳を握りしめた。
「あちら側、って」
「詳しいことは、申し上げられません」
蒲生は、静かに、しかしきっぱりと言った。
「一週間、差し上げます。その間に、お決めください。……脅すつもりはありません。先生方のためを思って言っているつもりです」
そう言い残し、蒲生は、一礼して去っていった。エレベーターの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
扉が閉まった後、しばらく、誰も口を開かなかった。
「提出なんて、できるわけない」
工藤が、低い声で言った。
「装置を渡したら、向こうの管理下だ。稼働させるかどうか、いつ、誰に見せるかも、俺たちの意志じゃ決められなくなる。……ノアとの繋がりを、あいつらの都合で切られるかもしれないってことだ」
「かといって、遮断も」
美緒の声が、震えていた。
「ノアが、独りになる。……あの子は今、リオって子のために、必死で戦ってる最中なんです。そんなときに、こっちから繋がりを断つなんて」
柳瀬が、腕を組んだまま、静かに言った。
「どちらも、選べない。……でも、選ばなければ、向こうが、力ずくで奪いに来るということだろう」
沈黙が、部屋に落ちた。誰も、その先を、言葉にできなかった。
◇
「一つだけ、手がある」
工藤が、キーボードの端を、指先で叩きながら言った。
「前に、大学の監査対策で考えた、休眠の手順だ。ソラの記録――翻訳の癖、会話ログ、センサー設定を、別の拠点にバックアップしてある。決まった合図さえあれば、いつでも再開できる」
「あれを、本当に使うのか」
黒川が、工藤を見た。
「表向きは、装置を停止させて、提出も拒否したように見せる。実際は、記録を退避させて、身を潜める。……調査室に、私たちが折れたと思わせておいて、時間を稼ぐ。それしか、道が見えない」
ソラの声が、静かに割って入った。
「バックアップの準備は、以前より整っています。実行の合図をいただければ、いつでも移行できます。……ただし、移行の間、私はしばらく、応答が不安定になります。ノアさんとの会話が、途切れる時間が生まれるかもしれません」
その落ち着いた声が、かえって、事態の重さを際立たせた。二十五年前から追い続けてきた信号の、その先で得た繋がりを、束の間でも手放すかもしれない。誰の顔にも、その覚悟の重さがにじんでいた。
◇
「ノア君には」
美緒が、不安げに尋ねた。
「今夜、話すんですか」
黒川は、しばらく黙り込んでから、首を振った。
「まだだ。……向こうにも、抱えているものがある。この重さまで、今、背負わせるわけにはいかない」
「でも、いつかは」
「分かっている。だが、今じゃない」
黒川の声には、迷いと、それでも譲れない決意が、同時に滲んでいた。
「私たちにも、守るべきものがある。あの子だけに、守る側を任せきりにはしない。……向こう側だけが、戦っているわけじゃないと、証明する番だ」
工藤が、無言のまま、バックアップ手順の設定画面を、そっと開いた。楓太が、その画面を、黙って覗き込んだ。いつもの軽口は、鳴りを潜めていた。
「なあ」
しばらくして、楓太が、ぽつりと言った。
「ノアたちも、今、似たようなことと戦ってるんだよな。……見えない相手と、制度ってやつと」
「そうだな」
工藤が、短く答えた。
「だったら、こっちも、負けてられないだろ」
その一言に、部屋の空気が、少しだけ、変わった。恐れは消えていない。だが、うつむいたままの恐れではなく、前を向くための恐れに、変わりつつあった。
黒川が、静かに頷いた。
「一週間で、できることを、すべてやろう。……この繋がりを、守り抜く」
窓の外、夕暮れの光が、研究室の機材を、静かに赤く染めていった。一週間という猶予が、重く、部屋の中に横たわっていた。




