第96話 箱がなくても
翌日の昼過ぎ、ノアは、様子を見るために、リオの家を訪ねた。箱は、宿に置いてきていた。少し顔を見せるだけのつもりだった。
戸を開けたリオの母親の顔色が、一目で分かるほど悪かった。
「リオが……朝から、様子がおかしいんです」
◇
奥の寝床に、リオが横たわっていた。顔は赤く火照り、額には玉のような汗が浮かんでいる。荒い息遣いの合間に、時折、体がびくりと痙攣するように震えた。
「リオ」
ノアが呼びかけると、リオは、うっすらと目を開けた。焦点の合わない目が、それでも、ノアの姿を捉えようとしていた。
「熱、いつからですか」
「今朝から。……昨日、あの人たちが来てから、ずっと様子が変で」
母親の声が、震えていた。
ノアは、リオの額に手を当てた。かなりの高熱だった。そして、その体の奥から伝わってくる、あの独特の熱――境の樹に近づいたときと同じ、共鳴の気配も、いつもより明らかに強くなっている。
祖母らしき老女が、部屋の隅で、震える手を組み合わせて祈っていた。この家に唯一残っていた年長者だった。
「また、悪いものに取り憑かれたんだ。……ああ、どうしたらいいんだろうねえ」
その言葉に、ノアは、静かに、しかしはっきりと首を振った。
「悪いものじゃありません。……不安と、恐怖のせいです」
◇
「不安や恐怖が、共鳴を強めることがあるって、聞いたことがあります」
ノアは、努めて、落ち着いた声で言った。
「昨日のことで、リオの中の何かが、揺さぶられたんだと思います」
「じゃあ、これは、あの祠のせいだって言うんですか」
父親が、掠れた声で尋ねた。悲痛な響きだった。
「祠のせいじゃない。……不安を、一人で抱え込んだせいです」
その言葉に、両親は、顔を見合わせた。
◇
箱は、ここにない。キョウジュにも、ソラにも、今すぐ相談することはできない。
一瞬、ノアの中に、不安がよぎった。だが、すぐに、その不安を押しのけた。
ヤナガセが、教えてくれたことがある。ハンナと積み重ねてきた、薬草の知識がある。それは、ちゃんと、自分の中にある。
「まず、熱を、少しずつ下げます」
ノアは、母親に指示を出した。
「濡らした布を、額と、首の後ろ、脇の下に。……あと、水を、少しずつでいいので、飲ませてあげてください」
「言われた通りに」
母親が、慌てて動き出した。
◇
ノアは、持ってきていた薬草袋を開いた。旅の道中、村や道端で見つけて摘んでおいた、解熱と鎮静に効く薬草が、いくつか入っていた。
「これを、煎じます。……火を、貸してもらえますか」
手を動かしながら、ノアは、リオの脈と呼吸を、注意深く確かめ続けた。柳瀬から教わった手順が、体に染みついたように、次々と蘇ってくる。危険な兆候を見逃さないための、確認の順番。落ち着かせるための、声のかけ方。
火にかけた鍋から、薬草の匂いが、静かに立ち上り始めた。母親が、震える手で薪をくべながら、時折、縋るような目でノアを見た。ノアは、そのたびに、小さく頷き返した。大丈夫、まだ、できることがある、と。
「大丈夫。……ゆっくり、息をして」
ノアは、リオの手を、そっと握った。
「僕が、ここにいる。独りじゃないから」
◇
煎じ薬を、少しずつ、リオの口に含ませる。熱で乾いた喉を、ゆっくりと潤していく。
時間が、長く、重く感じられた。だが、ノアは、焦らなかった。箱がなくても、自分にできることが、確かにあった。村で積み重ねてきた経験の一つ一つが、今、この手の中で、確かな力になっていた。
やがて、リオの呼吸が、少しずつ、落ち着いていった。痙攣するような震えも、治まっていく。
「……楽に、なってきた」
リオが、掠れた声で、そう呟いた。
◇
「ありがとう」
しばらくして、父親が、深く頭を下げた。
「あんたが、いてくれなかったら……俺たちだけじゃ、どうしていいか、分からなかった」
「僕も、まだ、勉強中です」
ノアは、正直に答えた。
「でも、教わったことを、ちゃんと、覚えてました」
母親が、涙を拭いながら、ノアの手を、両手で包み込んだ。
「あんたは、本物だね。……この子を、化け物扱いしなかった、初めての人だ」
その言葉に、ノアの胸が、じんと熱くなった。
部屋の隅で祈っていた祖母も、いつの間にか、ノアのそばに来ていた。
「わしは、長いこと、あの子を、腫れ物のように見てきちまった」
老女の声には、深い後悔が滲んでいた。
「あんたを見てて、分かったよ。……怖がるだけじゃ、何も守れやしないってことが」
◇
「これから、あの子を、どうすればいいと思う」
父親が、絞り出すように尋ねた。
「連れて行かれるのを、黙って待つしかないのか」
ノアは、しばらく、考えた。それから、まっすぐに、二人を見つめた。
「まだ、諦めたくないです。……リオのことを、一緒に守る方法を、考えさせてください」
両親は、顔を見合わせ、それから、静かに頷いた。信頼という名の、小さな橋が、ようやく、架かり始めていた。
窓の外、夕暮れの光が、静かに部屋を満たしていく。眠りに落ちたリオの寝顔は、初めて会った日よりも、ほんの少しだけ、安らかに見えた。




