第95話 宰相の手
村長の家の前に、村人たちが、ざわめきながら集まっていた。
ノアが駆けつけると、立派な馬車を背に、灰色の官服を着た男が、書状を片手に立っていた。物腰は丁寧だが、その目には、有無を言わせない硬さがあった。教会の紋章とは違う、質実な国章が、馬車の側面に刻まれている。
「王国宰相バルトルト様の名代として、参りました」
男の声は、よく通った。感情の起伏をほとんど感じさせない、平板な響きだった。
「この村に、特異な体質を持つ子どもがいると、報告を受けております」
その一言に、村人たちの視線が、一斉にざわめいた。誰かが息を呑む音が、ノアの耳にも届いた。
◇
村長が、一歩前に出た。
「特異な体質、とは」
「とぼけずとも結構です」
使者は、静かに、しかしきっぱりと言った。
「崖の祠に反応する子どもがいる。……我々の耳には、既に届いております」
村人たちの間に、動揺が走った。ノアは、拳を強く握りしめた。恐れていたことが、現実になろうとしていた。
◇
「宰相閣下は、この地に生じている特異な現象を、国家の資産として、正式に管理下に置くべきとお考えです」
使者は、淡々と、まるで台帳を読み上げるように続けた。
「王都に、専用の施設を用意します。学びの機会も、生活の保障も、十分に整えます。……何も、悪いようにはしません」
「それは」
ノアが、思わず声を上げた。
「その子を、連れていくってことですか」
使者は、初めて、ノアの方に視線を向けた。
「保護、と申し上げております」
その言い方に、ノアの背筋が、冷たくなった。どこかで聞いた言葉だと、すぐに気づいた。
◇
「教会も、似たようなことを、言っていました」
ノアは、震える声で、続けた。
「庇護する、って。……でも、それは、その人のためじゃなくて」
「教会とは、話が違います」
使者は、表情一つ変えずに、遮った。
「あちらは、教義に基づく判断でした。我々は、あくまで、国家の利益に基づいて動きます。特異な力を持つ者を、野放しにしておくことは、国にとって好ましくない。それだけのことです」
その乾いた言い方に、ノアは、かえって背筋が凍る思いがした。ヴェルナーには、まだ、歪んでいても信念があった。この男の言葉には、それすらもない。ただ、制度と、効率だけがあった。
◇
「その子は、化け物でも、道具でもありません」
ノアは、震える声を、必死に抑えながら言った。
「独りの、人間です」
使者は、しばらく、ノアを見つめていた。
「坊やの言うことは、理解できます。……ですが、これは、村一つの意見でどうにかなる話ではありません。じきに、正式な迎えの一団が参ります。それまでに、心の準備を、して頂きたい」
それだけ言うと、使者は一礼し、馬車へと戻っていった。村人たちの間に、重い沈黙が落ちた。
ハンナが、隣で、静かに息を吐いた。
「教会のときと、同じ顔つきをしてるね、あんた」
「うん」
「怖いのは、当然だよ。……相手が、姿の見えない大きなものになればなるほど、人は、無力さを感じるものだから」
ハンナの声には、経験に裏打ちされた重みがあった。だが、その目は、まだ何も諦めてはいなかった。
◇
その夜、ノアたちは、リオの家を訪ねた。
粗末な小屋の中、リオの両親が、青ざめた顔で座り込んでいた。母親は、リオを胸に抱きしめたまま、離そうとしなかった。
「連れて、行かれてしまうの」
母親の声が、震えていた。
「私たちじゃ、守ってやれない。……でも、知らない場所に、一人で行かせるなんて」
リオが、母の腕の中で、ノアを見上げた。その目には、あの日崖で見た絶望とは違う、微かな期待と、それ以上の恐怖が浮かんでいた。
「僕、また、独りになるの」
その一言に、ノアの胸が、強く締め付けられた。
◇
「独りにはさせない」
ノアは、リオの前に膝をつき、はっきりと言った。
「約束する」
「でも、どうやって」
リオの父親が、力なく尋ねた。
「相手は、国だぞ。……お前みたいな子どもに、何ができる」
ノアは、すぐには答えられなかった。教会のときとは、違う。ヴェルナーは、一人の人間だった。だが今度の相手は、姿の見えない「制度」そのものだった。
◇
その夜、境の樹越しの枠に、ノアは震える声で、今日の出来事を伝えた。
「王国の使者が来た。……リオを、国が管理するって」
「そうか」
神殿の水晶を介して届くアルバンさんの声が、重く響いた。
「実は、こちらにも、似た動きがある。境界事務局への正式な照会という形で、宰相府から問い合わせが来ている。……表向きは連携を求める体裁だが、実質は、管轄を奪おうとしている」
「教会と、争いになるんですか」
「なるだろうな」
アルバンの声に、隠しきれない苦さがあった。
「私が新設した部署の存在意義そのものが、試されることになる」
◇
「敵は、一人じゃない」
キョウジュの声が、静かに、しかし力強く響いた。
「ヴェルナーを退けても、また別の力が、同じ場所を狙ってくる。……悪意ある一人を倒せば終わる話じゃ、なかったんだな」
その言葉に、ノアは、深く頷いた。
制度は、人のように、説得できない。信念を持たないからこそ、揺らぐこともない。その重さが、じわりと、ノアの胸にのしかかってきた。
それでも――
「それでも、僕は、リオを守る」
ノアは、静かに、しかしはっきりと、そう言った。
窓の外、崖の方角に、リオの家の小さな灯りが、頼りなく揺れているのが見えた。あの灯りを、守らなければならない。
新しい戦いの輪郭が、静かに、しかし確かに、ノアの前に姿を現し始めていた。




