第94話 同じ痛み
翌日も、その翌日も、ノアは、崖の祠へ通い続けた。
長居はしない。無理に話しかけもしない。ただ、少しずつ、薬草や、食べ物や、時には、他愛のない話を、そっと置いていく。それだけを、繰り返した。
二日目は、少年が、置いていった薬草に、そっと手を伸ばすのが見えた。三日目は、少しだけ、こちらを見る時間が長くなった気がした。目に見える変化は小さかったが、ノアには、確かな手応えがあった。
「今日は、こんな話をしたよ」
三日目の夜、ノアは、箱に向かって、そう報告した。
「村で採れる貝の話。……向こうも、答えてはくれなかったけど、耳は、こっちに向けてた気がする」
「いいペースだ」
キョウジュの声が、優しく答えた。
「焦らず、そのまま続けろ」
ミオの声も、続いた。
「無理に踏み込まないでいてくれて、ありがとう。……それが、一番、あの子のためになると思う」
◇
四日目の夕方、崖に着くと、少年は、いつもの岩陰ではなく、少し開けた場所に座っていた。
初めて、目が合った。逃げようとはしなかった。
「今日は……」
ノアが、恐る恐る近づくと、少年は、小さく、掠れた声を出した。
「リオ」
「え?」
「名前。リオ、っていう」
その一言に、ノアの胸が、じんと熱くなった。ようやく、届いた。長い時間をかけて、少しずつ差し出してきた手が、ようやく、届いたのだと分かった。
◇
「リオ。……ありがとう、教えてくれて」
ノアは、少し距離を詰めて、腰を下ろした。リオは、身を固くしたが、逃げはしなかった。
「僕は、ノア。……前にも言ったけど」
「聞いた。憶えてる」
リオの声は、まだ細く、弱々しかった。だが、確かに、言葉を交わしていた。
「なんで、来るの」
リオが、ぽつりと尋ねた。
「みんな、僕には、近づかない。怖い、から」
「怖くないよ」
ノアは、はっきりと答えた。
「僕も、同じだから」
◇
「同じ、って」
リオの目に、初めて、はっきりとした光が宿った。疑いと、それでも、縋りたいような、複雑な色だった。
「境の樹――こことは違う、遠い場所に、似たようなものがある。僕は、そこに、強く反応するんだ。お前が、その祠に反応するのと、同じように」
「嘘だ」
リオの声が、震えた。
「みんな、僕を化け物みたいに見る。同じなんて、そんなやつ、いるはずない」
「いるんだよ」
ノアは、静かに、しかしはっきりと言った。
「僕の村でも、最初は、そうだった。魔力ゼロの出来損ないって、ずっと呼ばれてた。……でも、それが、本当は違う意味を持ってたって、後から分かったんだ」
◇
「僕の母さんも、お前や、僕と同じだった」
ノアは、震える声で、続けた。
「独りで抱え込んで、誰にも言えなくて。……それで、死んじゃった」
リオが、息を呑んだ。
「僕は、母さんみたいには、なりたくない。だから、独りで抱え込まないって、決めたんだ。……お前にも、それを、伝えたかった」
しばらく、二人とも、何も言わなかった。波の音だけが、静かに、辺りを満たしていた。
「……本当に、同じなの」
リオが、震える声で、そう尋ねた。
「本当だよ」
ノアは、まっすぐに、リオを見つめた。
「お前は、化け物なんかじゃない。祠に近い場所で生まれた、特別な力を持ってるだけだ」
◇
リオの目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。声を殺しながら、痩せた体を震わせて、泣いていた。
「ずっと……ずっと、独りだと思ってた」
「もう、独りじゃない」
ノアは、そっと、リオの背に手を置いた。リオは、一瞬びくりと震えたが、拒みはしなかった。
「僕も、仲間も、みんな、味方だから」
その夜、初めて、リオは、少しだけ、多くのことを話してくれた。祠に近づくと熱を持つこと、体調を崩すたびに、両親が心配というより、恐れた目で自分を見ること、村中から遠巻きにされてきたこと。堰を切ったように溢れる言葉の一つ一つに、これまでの孤独の重みが滲んでいた。
「父さんも、母さんも、悪い人じゃない。……ただ、僕のことが、怖いんだと思う」
リオが、力なく笑った。
「小屋に、閉じ込めておくのが、一番安全だって。……それが、優しさなんだって、言われた」
その言葉に、ノアの胸が、締め付けられた。閉じ込めることと、守ることは、似ているようで、まったく違う。それを、リオの両親は、まだ知らないのだろう。
◇
孤独だった少年に、ようやく、一つの確かな繋がりが生まれた瞬間だった。
だが――
その夜、ノアが宿へ戻ると、村の入り口に、見慣れない一団の姿があった。
立派な馬と、洗練された身なりの従者たち。掲げられた紋章は、教会のものではなかった。
「あれは……」
ルカの顔が、強張った。
「王国の、紋章だ」
翌朝、村中に、緊張が走った。王国から遣わされたという一団が、村長の家を訪れ、何かを告げているという知らせが、瞬く間に広がっていった。
ノアたちが、ようやく開きかけたリオの心。その矢先に、新たな影が、静かに、しかし確実に、村に忍び寄っていた。




