第92話 潮の匂う村
潮の匂いが、風に混じり始めたのは、旅の五日目のことだった。
「もうすぐだ」
ルカが、前方を指差した。木々の切れ間から、灰色の海が、ちらちらと覗いている。ノアにとって、生まれて初めて目にする海だった。
「大きい……」
ティナが、目を丸くして呟いた。村の小川や、王都で見た噴水とは、まるで違う、果てのない広がりだった。
「これが、海か」
ノアも、しばらく、言葉を失っていた。境の樹の光とは違う、けれど同じくらい、遠くまで広がる何かを前にしているような、不思議な感覚だった。
道中、大きな問題はなかった。ルカの案内は的確で、夜も、村や宿場を選んで安全に過ごすことができた。それでも、日を追うごとに、ノアの胸の中では、期待と緊張が、少しずつ膨らんでいった。
◇
村の入り口が見えてきたとき、ノアは、何とも言えない違和感を覚えた。
畑も、家々も、村としての体裁は整っている。だが、道行く人々の視線が、どこか鋭かった。よそ者を見る目に、単なる好奇心以上の、明確な警戒が滲んでいる。
「愛想のいい村じゃ、なさそうだな」
ルカが、小声で言った。
「気をつけろ。海辺の村は、時々、こういう空気を持つことがある」
◇
宿を探して歩く道すがら、ノアは、崖の上に、小さな祠らしきものを見つけた。古びた石造りの祠が、荒れた海風に晒されながら、そこにひっそりと佇んでいる。
「あれが……」
思わず、足が止まった。距離があるにもかかわらず、体の奥に、微かな熱が生まれるのを感じた。境の樹に近づいたときと、よく似た感覚だった。
「間違いないみたいだね」
ハンナが、静かに言った。その声にも、緊張が滲んでいた。
◇
宿の主人に、それとなく祠のことを尋ねてみたが、返ってきたのは、素っ気ない返事だけだった。
「さあな。古くからあるってだけで、詳しいことは知らんよ」
「子供が、体調を崩してるって話は」
ノアが重ねて尋ねると、主人の顔が、明らかに強張った。
「……余所の人間が、あれこれ詮索するもんじゃない」
それだけ言って、主人は、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。
「手強いな」
ルカが、肩をすくめた。
「無理に聞き出そうとすれば、余計に固く口を閉ざすだけだ。……ここは、腰を据えてかかるしかない」
「腰を据える、って」
「何日か、この村に馴染む努力をするってことだ。俺たちが、悪いよそ者じゃないと、分かってもらうところから始めよう」
ノアは、深く頷いた。焦る気持ちを抑えながら、まずは、この土地に根を張ることから始めるしかない。
◇
村の広場でも、子供の姿は、ほとんど見かけなかった。数人、遠くで駆け回る影はあったが、ノアたちが近づこうとすると、大人たちが、さりげなく間に割って入ってくる。
「随分と、守りが堅いな」
ルカが、苦笑交じりに言った。
「よそ者を警戒してるだけじゃない。……何か、隠したいことがある目だ」
ティナが、不安げに、ノアの袖を掴んだ。
「大丈夫かな、あたしたち」
「大丈夫。……時間はかかるかもしれないけど」
ノアは、そう答えながらも、自分の声に、確かな緊張が滲んでいるのを感じていた。
ハンナが、静かに、辺りを見回した。
「あたしたちの村も、よそ者にはこんな顔をしてた時期があったね。……理由のない警戒じゃない。何かを、守ろうとしてるだけなんだ」
その一言に、ノアは、少し落ち着きを取り戻した。この村の人々もまた、恐れながら、大切な誰かを守っているのかもしれない。
◇
その夜、宿の一室で、ノアは、静かに箱を取り出した。
「着いたよ」
「村の様子は、どうだ」
キョウジュの声が、心配そうに響いた。
「よそ者に、すごく厳しい。子供の話をしただけで、みんな、口を閉ざしちゃう」
「無理もない」
ソラの声が、静かに続いた。
「祠に強く反応する子どもがいるということは、この村にとっても、扱いに困る事実なのかもしれません。……教会や、他の権力に知られることを、恐れているのかもしれません」
その言葉に、ノアの胸が、ずしりと重くなった。
◇
「でも」
ノアは、崖の上に見えた、あの古びた祠を思い出しながら、続けた。
「絶対、この村のどこかに、いる。……あの祠に近づいたとき、感じたんだ。境の樹に近いときと、同じ感覚」
「無理はするなよ」
キョウジュの声が、静かに、しかしはっきりと言った。
「この村の人たちの気持ちも、大事にしろ。……急いて、警戒を強めさせちゃ、元も子もない」
「うん、分かってる」
ノアは、頷いた。窓の外から、絶え間なく打ち寄せる波の音が、静かに聞こえていた。見知らぬ土地の、見知らぬ音。だがその向こうに、確かに、誰かが独りで抱えている痛みがあるのだと、ノアは、強く感じていた。
明日から、この閉ざされた村の心を、少しずつ、開いていかなければならない。その覚悟を胸に、ノアは、夜の闇の中で、静かに目を閉じた。




