第91話 境を測る
研究室の壁一面に、波形のグラフが映し出されていた。深夜だというのに、誰一人、席を立とうとしない。
「もう一度、あの日のデータを、洗い直そう」
黒川が、画面を指しながら言った。聖具の間で境が一時的に大きく開いた、あの日の記録だった。何度も見返してきたはずのデータだったが、新たな視点を得た今、まったく違う景色に見えていた。
「共鳴の強度自体は、想定の範囲内だった。だが、ここ――拡大の瞬間だけ、明らかに異質な揺らぎが混ざっている」
工藤が、身を乗り出した。目の下には、隈ができている。
「異質な、揺らぎ?」
◇
「見てくれ」
黒川が、波形の一部を拡大した。滑らかな共鳴の曲線の中に、細かく、規則性の異なる波が、幾重にも重なっている。まるで、二つの違う楽器が、同時に鳴っているかのような形だった。
「ノア君一人の共鳴だけでは、説明のつかない成分だ」
「まさか」
美緒が、息を呑んだ。
「あのとき、別の……ってことですか」
「断定はできない。だが、無視できない一致がある」
ソラの声が、静かに割って入った。
「この波形の特徴は、私が継続的に検知している、あの別の共鳴反応と、部分的に重なります」
部屋の空気が、静かに張りつめた。
◇
「もし、これが正しいなら」
柳瀬が、腕を組みながら言った。
「境の反応は、一人の共鳴よりも、複数の共鳴が重なったときに、飛躍的に強まる可能性がある」
「つまり」
楓太が、目を輝かせた。
「ノアと、もう一人の子が、一緒に何かすれば……もっと、大きく境が開くかもしれない、ってことですか」
「まだ、何も確かなことは言えない」
美緒が、慎重に言葉を選びながら言った。
「でも、もしそうなら……ノアが、独りで抱え込まなくていい理由が、また一つ増えるってことですよね」
その言葉に、部屋の空気が、少しだけ和らいだ。
「あくまで、仮説の段階だ」
黒川が、釘を刺すように言った。
「だが、検証する価値はある。……ノア君たちが、その子に会えたなら、教えてもらいたいことが、いくつも出てくるだろう」
工藤が、キーボードを叩く手を止めずに、頷いた。
「理論上の話だけじゃない。もし本当にそうなら、境をもっと安全に、大きく開く道筋が見えてくるかもしれない」
「安全に、か」
柳瀬が、静かに呟いた。
「エレナさんは、独りで、無理に閉じようとして体を壊した。ヴェルナーは、独りで、無理に開こうとして自滅した。……もし、二人で分け合えるなら、そのどちらとも違う道が、あるのかもしれない」
その言葉に、誰もが、しばらく黙り込んだ。母が辿れなかった道の、その先に、もう一つの光明が見え始めている。そのことの重みを、全員が、静かに噛みしめていた。
◇
その夜遅く、黒川の携帯電話が鳴った。
「……もしもし」
「久しぶりだな、黒川。元気にしてるか」
電話の向こうから、聞き覚えのある声がした。大学院時代の同期、今は別の研究機関に籍を置く男だった。
「ああ、まあな。……どうした、急に」
「いや、大したことじゃないんだが」
男の声に、少し、含みがあった。
「うちの方に、妙な問い合わせが来てな。……異常な、説明のつかないエネルギー反応について調べてる人間はいないか、って」
黒川の手が、微かに強張った。
「それが?」
「その中で、お前の名前が出た。……昔の、あの『幽霊信号』の研究のことも、知ってる口ぶりだった」
「誰から、そんな話が」
「分からん。所属もはっきりしない、妙な連中だった。……お前、今、何かやばいことに首を突っ込んでないよな?」
冗談めかした問いに、黒川は、すぐには答えられなかった。
◇
電話を切った後、黒川は、しばらく、暗い画面を見つめたまま、動けなかった。
「教授、どうしました」
美緒が、心配そうに声をかけた。
「……何でもない」
そう答えながらも、黒川の胸の内には、拭いきれない不安が、静かに広がっていた。境の可能性が見え始めた、まさにその同じ夜に、外側からの視線もまた、少しずつ、近づいてきている。
工藤が、眉をひそめた。
「教授、何かあったんですか」
黒川は、一瞬迷ってから、電話の内容を、かいつまんで話した。聞き終えた工藤の顔から、血の気が引いた。
「それって……うちのことが、外に漏れ始めてるってことじゃ」
「決めつけるのは、まだ早い」
黒川は、努めて冷静に言った。だが、その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「ソラ、念のため、記録の管理体制を、もう一度見直しておいてくれ」
「承知しました」
ソラの声は、いつも通り静かだったが、その静けさが、かえって、事態の重さを際立たせていた。
窓の外、都会の夜空には、星の代わりに、無数の光が瞬いていた。その光の一つ一つの向こうに、いつか繋がるかもしれない誰かと、いつか脅かされるかもしれない何かが、同時に息づいているのだと、黒川は、静かに思った。




