第90話 旅の許し
「浜の村へ、行きたいと思います」
村長の家に、ノア、ハンナ、ルカ、そして村長が顔を揃えていた。ノアの声は、静かだったが、揺るぎなかった。
ヨナスに会った日から、ノアの中で、迷いは少しずつ形を変えていた。行くべきか、行かざるべきか、という問いは、いつの間にか、どうやって行くか、という問いに変わっていた。それでも、独りよがりに決めることだけは、したくなかった。
村長は、しばらく、腕を組んだまま黙っていた。
「危険は、承知の上か」
「はい。でも、行かなきゃいけない気がします」
◇
「王都まで一度出て、また命を危険に晒すのかい」
ハンナが、静かに、しかしはっきりと尋ねた。責めているのではない。ただ、確かめたいのだと、ノアには分かった。
「危ないのは、分かってる。それでも」
ノアは、言葉を選びながら、続けた。
「もし、リオって子が、僕と同じで、独りで苦しんでるなら。……知らないふりは、できない」
ハンナは、しばらく、ノアの顔を見つめていた。それから、静かに息を吐いた。
「エレナと、同じことを言うんだね」
「え?」
「あの子も、困ってる人を放っておけない性分だった。……危なっかしいところまで、そっくりだよ」
その言葉には、悲しみと、確かな誇らしさが、同時に滲んでいた。
◇
「僕からも、いい?」
戸口から、ティナの声がした。いつの間にか、話を聞いていたらしい。
「あたしも、連れてって」
「ティナ……」
「あんたが王都に行ってる間、あたしにできたのは、境の樹の前で祈ることだけだった。……今度は、隣にいたい」
その一言に、ノアの胸が、じんと熱くなった。
「危ないよ。祠のある村だって、よそ者に厳しいって、ルカさんも言ってた」
「知ってる。それでも」
ティナは、まっすぐに、ノアを見た。
「あんたが独りで危ない目に遭うのを、また指をくわえて待ってるのは、もう嫌なんだ」
その後ろで、ダグが、腕を組んだまま、小さく頷いていた。
「俺は、今回は、留守を守る」
ダグが、ぽつりと言った。
「誰かが、村のことも、境の樹のことも、見ておかなきゃならない。……それに、お前らが戻ってくる場所を、ちゃんと残しておかないとな」
その言葉には、寂しさを押し殺した、確かな覚悟があった。
◇
村長が、静かに口を開いた。
「分かった。ただし、いくつか、条件がある」
「はい」
「ルカ殿に、道中の案内と護衛を頼む。境界事務局のアルバン殿にも、正式に話を通しておく。……何かあれば、すぐに知らせが届くようにな」
「承知しました」
ルカが、頷いた。
「俺の伝手も、使えるだけ使おう。ミレナさんにも、改めて先触れを出しておく」
◇
その夜、境の樹越しの枠に、研究室の面々が揃った。
「行くのか」
キョウジュの声が、静かに響いた。
「うん」
「危険は、承知してるな」
「うん。でも、今度は、勢いだけじゃない。ちゃんと、みんなと相談して決めた」
キョウジュは、しばらく黙っていたが、やがて、静かに言った。
「なら、止めない。……こちらも、できる限りの備えをする」
「ソラ、道中も、可能な範囲でセンサーの情報を共有してくれ」
「承知しました」
ソラの声が、静かに答えた。
「腕輪の色も、遠隔である程度確認できるよう調整します」
◇
出発の朝、村の広場に、見送りの人々が集まった。
「ほら、これを持ってけ」
ガルドが、新しい肩掛け袋を差し出した。前のものより、一回り大きい。
「今度は、ティナの分もある。二人分の荷物、詰め込めるようにな」
「ありがとう、ガルドさん」
エーラが、干し薬草と焼き菓子の包みを、ハンナに手渡した。
「道中の食べ物は、あたしが。……気をつけて、行っといで」
その光景に、ノアは、既視感を覚えた。王都へ発ったあの朝と、同じ温かさが、ここにあった。
◇
「じゃあ、行ってきます」
ノアが頭を下げると、村長が、静かに頷いた。
「行ってこい。……お前なら、大丈夫だ」
ダグが、無言のまま、ノアの肩を、軽く叩いた。言葉はなくとも、その手の重みに、確かな信頼が込められていた。
ハンナが、荷を背負い直しながら、隣に並んだ。
「行くよ」
「うん」
ノア、ハンナ、ティナ、ルカの四人は、浜の村へ向けて、静かに歩き出した。振り返ると、村人たちが、いつまでも手を振っていた。
母が持てなかったものを、今、確かに手にしている。仲間の見送りを背に受けながら、ノアは、その重みを、しっかりと胸に刻んでいた。
村外れの丘を越えるとき、ノアは、一度だけ振り返った。村長、ダグ、エーラ、ガルド。小さくなっていく人影が、それでも、いつまでも手を振り続けているのが見えた。
「大丈夫。ちゃんと、帰ってくるから」
誰にともなく、ノアは、そう呟いた。隣で、ハンナが、静かに微笑んだ。
「分かってるさ。だから、みんな、笑って送り出してくれたんだよ」
丘を越えると、村の姿は、木々の向こうに消えていった。それでも、背中に受けた温もりは、道中ずっと、消えることなく、四人を包み続けていた。




