第89話 生きて帰った人
「見つかった」
夜の枠越しに、アルバンの声が響いた。いつもより、幾分か興奮を帯びている。
「境界事務局の権限で、神殿の正式な記録に当たれるようになってな。……あの、二年後に帰還した者の名だ」
ノアの手が、思わず箱を強く握った。
「誰なんですか」
「ヨナスという。存命だ。今も、お前たちの村から、大人の足で半日ほどの、小さな農村で暮らしている」
「会いに、行ってもいいですか」
「もちろんだ。……ただ、無理に話を聞き出そうとはするな。あの人にとっても、思い出したくない過去かもしれない」
アルバンの言葉に、ノアは、静かに頷いた。記録保管室で見た、あの短い一文の裏に、どれほどの重さがあったのか。想像すると、胸が締め付けられた。
◇
翌朝、ノアとハンナは、ルカの案内で、その村へ向かった。
「随分と、静かなところだな」
ルカが、周囲を見回しながら呟いた。畑の広がる、何の変哲もない農村だった。かつて教会に召し上げられ、二年もの歳月を過ごした人間が、今もひっそりと暮らしているとは、とても思えない静けさだった。
教えられた家の戸を叩くと、しばらくして、腰の曲がった老人が顔を出した。深く刻まれた皺の奥に、油断のない目があった。畑仕事で節くれ立った手が、戸枠を、しっかりと支えている。
「……境界事務局の、使いかね」
「はい。ノアといいます。少し、お話を伺いたくて」
ヨナスは、ノアの顔を、じっと見つめた。値踏みするような、それでいて、どこか懐かしむような目だった。長い沈黙の後、静かに、戸を大きく開けた。
「入りなさい。……あんたの目には、覚えがある」
◇
「あの二年、何があったんですか」
囲炉裏端に腰を下ろすと、ノアは、単刀直入に尋ねた。ヨナスは、しばらく火を見つめてから、ゆっくりと語り始めた。
「神殿の奥深く、他の者とは隔離された部屋に置かれた。毎日、色々な術者が来ては、わしの反応を測った。……お前も、覚えがあるだろう」
「はい」
「わしは、怖かった。だから、決めたんだ。何を聞かれても、何も感じないふりをする、と」
ヨナスの声が、少し掠れた。
「実際、樹の近くにいるときの、あの感覚を、必死に押し殺した。二年かけて、わしは、自分の中の何かを、完全に黙らせることに成功した」
「それで、帰してもらえたんですか」
「そうだ。……もう調べる価値がない、無害な出来損ないだと、向こうが判断した」
その言葉に、ノアの胸が、静かに痛んだ。
◇
「帰ってきてからは、どうしてたんですか」
ハンナが、静かに尋ねた。ヨナスは、遠くを見るような目をした。
「二度と、境の近くには寄らなかった。誰にも、あの二年のことは話さなかった。……この村の連中も、わしがただの、変わり者の年寄りだと思ってるだけだ」
「それで、良かったんですか」
ノアの問いに、ヨナスは、初めて、はっきりと苦い顔をした。
「良くはなかったよ」
その一言に、部屋の空気が、重くなった。
「わしは、口を閉じることで、生き延びた。だが、それで守れたのは、自分だけだった」
「家族は、いなかったんですか」
ノアが尋ねると、ヨナスは、寂しげに笑った。
「一度は、所帯を持とうとしたこともある。だが、本当の自分を隠したまま、誰かと深く関わるのは、思った以上に苦しかった。……結局、独りを選んだ」
その言葉が、ノアの胸に、重く沈んだ。ヨナスは、体こそ生き延びたが、その代償に、多くのものを手放していたのだと分かった。
◇
「わしの後にも、同じような子が、きっといただろう。だが、わしは、何も伝えなかった。何も、残さなかった。……ただ、怖くて、逃げただけだ」
ヨナスの声が、震えた。
「あんたが、ここまで調べに来たということは……もしかして、もう一人、いるのかね」
ノアは、静かに頷いた。
「多分。……まだ会えてないけど」
「なら」
ヨナスは、身を乗り出し、ノアの手を、皺だらけの手で、強く握った。
「わしのようには、なるな。黙って、隠れて、それで一生を終えるな。あんたが知ったことを、その子にも、ちゃんと伝えてやってくれ」
「はい」
ノアは、震える声で、しっかりと答えた。
ルカが、そっと口を挟んだ。
「ヨナスさん、これからも、時々顔を出させてもらっていいですか」
「……好きにしな」
そう言いながらも、ヨナスの声は、先ほどより幾分か柔らかくなっていた。長年閉ざしてきた戸が、ほんの少しだけ、開いたような一言だった。
◇
帰り道、村へ続く道を歩きながら、ノアは、ヨナスの言葉を、何度も反芻していた。
母は、独りで抱え込み、命を削った。ヨナスは、黙ることで、自分だけは生き延びた。どちらも、痛ましい生き方だった。
自分は、そのどちらでもない道を選んだ。独りで抱え込まず、黙って隠れもせず、仲間と共に、正面から向き合う道を。
「僕は、ヨナスさんみたいには、ならない」
隣を歩くハンナに、ノアは、静かに呟いた。
「知ったことは、ちゃんと、その子に伝える。……独りじゃないって、伝えたい」
ハンナが、優しく頷いた。
「ああ。それが、あんたのやり方だ」
夕暮れの道の向こうに、見慣れた村の輪郭が、少しずつ近づいてきていた。まだ見ぬ少年の元へ、一歩ずつ、近づいていく感覚が、ノアの中に、確かに根を張り始めていた。




