第88話 遠い浜の話
「久しぶりだな」
戸口に立っていたのは、ルカだった。旅装のまま、外套には、まだ道中の埃が残っている。
「ルカさん! いつ、着いたの」
「ついさっきだ。まっすぐ、ここに来た」
ハンナが、すぐさま椅子を勧め、水を差し出した。ルカは、一息にそれを飲み干すと、深く息を吐いた。
「相変わらず、この村の水は美味いな」
「元気そうで、良かった」
ノアが言うと、ルカは、片目を軽く閉じてみせた。
「お前もな。……顔つきが、王都にいた頃より、大分落ち着いてる」
そう言ってから、ルカは、荷袋を下ろしながら、真剣な表情になった。
「今日は、ただの挨拶回りじゃない。……お前に、伝えておきたいことがある」
◇
「海沿いの、小さな漁村での話だ」
ルカが、地図の代わりに、床に指で簡単な地形を描きながら語り始めた。
「王都から、馬でも十日はかかる、辺鄙な場所でな。そこに、妙な噂がある」
「妙な噂?」
「『祠に憑かれた子』がいる、って話だ」
その一言に、ノアの心臓が、大きく跳ねた。
「崖の上に、古い祠があるらしい。その近くに住む子どもが、時々、体調を崩す。しかも、その子が近づくと、祠が妙な光り方をする、と」
「歳は、いくつくらいの子なんですか」
「詳しくは分からんが……十かそこいらだと、聞いた」
ノアより、いくつか幼い。その事実が、なぜか、胸の奥を、ちくりと刺した。
「それって……」
「ああ。俺も、聞いた瞬間、お前のことを思い出した」
ルカの声には、確信に近い響きがあった。
◇
「その村の名前、分かりますか」
箱の枠から、キョウジュの声が、割って入った。ルカは、少し驚いた様子を見せたが、すぐに頷いた。
「昔、俺に色々教えてくれた人の、生まれ故郷だ。……ミレナさんの村だよ」
「ミレナさんの」
ノアは、思わず声を上げた。境の樹は、世界のあちこちにある。そう語った、あの老女の故郷。そこに、今、まさに苦しんでいる子どもがいるという。
「偶然、にしては、出来すぎてる」
ソラの声が、静かに答えた。
「私が検知し続けている、あの別の反応。地理的な特定はできていませんが、方角や強度の変化の傾向は、これまで、海の方向を示唆するデータとも矛盾しません」
部屋の空気が、一気に張りつめた。
◇
「もう一つ、伝えることがある」
ルカが、懐から一通の書状を取り出した。
「境界事務局から、正式な照会が出てる。お前の村だけじゃなく、各地の教会関係者に向けて、『不可解な発光現象や、原因不明の体調不良の報告があれば、境界事務局まで』ってな」
「アルバンさんが」
「ああ。あの真面目な男らしい、地道なやり方だ」
ノアは、その書状を受け取り、じっと見つめた。整った文字の端々に、アルバンらしい丁寧さが滲んでいた。
◇
「もし、本当に、その子が」
ノアは、震える声で、続けた。
「僕と同じなら。……独りで、苦しんでるなら」
ハンナが、静かに、ノアの肩に手を置いた。
「行きたいのかい」
「うん」
迷いのない即答だった。だが、すぐに、ノアは、その勢いを少しだけ抑えた。
「でも、今度は、ちゃんと、みんなと相談してから決めたい。前みたいに、勢いだけで動くんじゃなくて」
その言葉に、ハンナが、目を細めた。
「随分と、大人になったもんだ」
ハンナは、それから、少し遠くを見るような目をした。
「エレナも、もし、誰かに手を差し伸べてもらえていたら……あるいは、誰かに手を差し伸べられる立場だったら、少しは、違ったのかもしれないね」
その呟きに、ノアの胸が、静かに震えた。
◇
「僕たちも、できる範囲で調べる」
キョウジュの声が、力強く響いた。
「ソラ、引き続き、データの解析を頼む」
「はい。優先度を上げて対応します」
クドウが、少し興奮した様子で、身を乗り出す気配があった。
「もし本当に、もう一人いるなら……エレナさんのケースだけじゃなく、新しいデータが手に入るかもしれない。安全な共鳴の方法を、もっと確かなものにできるかも」
「不謹慎、だぞ」
ヤナガセが、たしなめるように言った。だが、その声にも、隠しきれない緊張と期待が滲んでいた。
「私からも、一つ」
ミオの声が、静かに続いた。
「もし本当にその子に会えることになったら……怖がらせないように、時間をかけてあげてほしい。ノアだって、最初は、誰にも心を開けなかったでしょう」
その言葉に、ノアは、深く頷いた。
「うん。……分かってる」
自分がそうだったように、その子もまた、簡単には信じてくれないかもしれない。だからこそ、急いてはいけない。ルカの旅の間、何度も繰り返された「一人じゃない」という言葉を、今度は自分が、誰かに手渡す番なのだと、ノアは、静かに思った。
◇
その夜、ノアは、なかなか寝つけなかった。
見知らぬ浜辺の村、崖の上の祠、そこで独り、体調を崩しているという子ども。顔も名前も知らないその誰かの姿が、頭の中で、幼い頃の自分と、日記の中の母の面影とに、幾度も重なった。
自分にできることが、あるかもしれない。母が受け取れなかったものを、今度は自分が誰かに手渡せるかもしれない。
その予感は、恐れよりも、静かな決意に近い熱を持って、ノアの胸の内に、灯り始めていた。
窓の外、遠い森の向こうで、境の樹が、いつもと変わらぬ光を、静かに瞬かせていた。その奥に混じる、もう一つの小さな光を、ノアは、確かに感じ取っていた。




