第87話 帰ってきた日常
朝露に濡れた薬草の葉を、指先でそっと払う。その感触が、こんなにも懐かしく感じられるとは、ノアは思ってもみなかった。
「今日は、この辺りまでにしとくかい」
隣で腰を屈めていたハンナが、籠の中身を確かめながら言った。
「うん。もう十分」
村に戻ってから、半月ほどが経っていた。王都での日々が、まるで随分昔の出来事のように感じられる朝もあれば、ふとした瞬間に、あの緊迫した記憶が鮮やかに蘇る朝もある。二つの感覚が、ノアの中で、まだ落ち着かずに揺れていた。
◇
昼過ぎ、村の外れの家から、腹を壊した子どもがいると呼ばれた。ノアは、薬箱を提げて駆けつけ、柳瀬から教わった手順どおりに、経口補水の作り方を母親に教えた。
「塩と、砂糖を、この加減で。……一気にじゃなく、少しずつ飲ませてあげてください」
「ありがとうねえ、ノア。腕を上げたねえ」
年配の女が、しみじみと言った。ノアは、少し照れくさくなって、頭を掻いた。王都で色々なことがあっても、村での仕事は、変わらずそこにあった。むしろ、その変わらなさが、今のノアには、何より心地よかった。
◇
「ノア、こっちこっち!」
畑の向こうから、ティナが手を振っていた。傍らには、ダグが、いつものように無愛想な顔で立っている。
「今日も、薬草採り?」
「うん。ばあちゃんと」
「相変わらず、真面目だな」
ダグが、鍬を担ぎ直しながら、ふっと笑った。その口調に、以前と変わらない気安さがあることが、ノアには、何より嬉しかった。王都で色々なことがあった後でも、ここでは、自分はただの「ノア」でいられる。
「今度また、境の樹に一緒に行ってもいい?」
ティナが、少し声を落として尋ねた。
「うん、もちろん」
「あんたが向こうで頑張ってた間、あたしたちも、あそこで祈るくらいしかできなかったから。……ちゃんと、お礼を言いたくて」
ティナの言葉に、ノアの胸が、じんわりと温かくなった。
◇
その帰り道、村長の家に立ち寄ると、村長が、書き物の手を止めて迎えてくれた。
「境界事務局とやらから、また文が届いた」
差し出された書状には、丁寧な字で、村の様子伺いと、何かあればいつでも連絡をという旨が記されていた。差出人は、アルバンだった。
「随分と、律儀な男だな」
村長が、苦笑交じりに言った。
「王都の外まで、こうして気にかけてくれるとはね」
「ちゃんとした人なんです」
ノアが答えると、村長は、静かに頷いた。
「お前が、そう言うなら、信じよう」
◇
夜、家の中が静まり返ると、ノアは、荷袋から箱を取り出す。これも、王都から戻ってからの、新しい日課だった。
「今日も、始めるか」
キョウジュの声が、枠の向こうから響いた。
「うん」
ノアは、目を閉じ、静かに息を整えた。短く、境の樹の方角へ意識を向ける。ほんの数秒。それだけで、体の奥に、じんわりとした熱が生まれる。
「――そこまでだ」
キョウジュの声に、ノアは、意識を引き戻した。腕輪の石は、わずかに色を変えていたが、危険な域には達していない。
「今日の分は、これくらいにしておこう。無理はするな」
「うん、分かってる」
短く共鳴し、長く休む。母が成し得なかったやり方を、ノアは、一歩ずつ、体に馴染ませていた。怖さは、まだ消えない。それでも、繰り返すたびに、確かな手応えが積み重なっていくのを感じていた。
◇
「調子は、どうだ」
ある夜、クドウが尋ねた。
「悪くないよ。腕輪も、まだ一度も、赤くはなってない」
「上出来だ。……その調子で、焦らずやってくれ」
ミオの声も続いた。
「無理させないでね、キョウジュ」
「分かってる。エレナさんのケースを、忘れちゃいない」
その一言に、部屋の空気が、少しだけ静かになった。母の名前は、今も、この繋がりの中に、そっと生き続けている。
◇
「――一つ、報告があります」
ある晩、ソラの声が、いつもより硬く響いた。
「例の、別の反応のことです」
ノアの手が、止まった。
「あれから、ずっと続いてる?」
「はい。頻度も強さも、目立って変化はありません。ただ、消えることもなく、断続的に記録され続けています」
村に帰り着いた夜、祝いの席で聞いた、あの言葉が、頭の中に蘇る。自分と違う波形を持つ、誰か。
「その人が、どこにいるのか、まだ分からないんだよね」
「はい。地理的な特定には、至っていません」
ノアは、しばらく、箱を見つめたまま、黙っていた。
「もし、その人が」
「うん?」
「僕と同じように、独りで苦しんでたら」
言葉の続きは、出てこなかった。だが、キョウジュにも、ミオにも、その先にある思いは、十分に伝わったようだった。
「今は、分からないことだらけだ」
キョウジュの声が、静かに答えた。
「だが、何か分かったら、必ず伝える。……お前が、それにどう向き合うかは、そのときに、一緒に考えよう」
「うん」
ノアは、頷いた。村に戻り、日常を取り戻しながらも、心のどこかで、まだ何かが終わっていないという感覚が、拭えずにいた。
◇
その夜、床に就く前、ノアは、窓の外に見える森の輪郭を、しばらく眺めていた。
境の樹は、今夜も、いつもと変わらぬ穏やかな光を、静かに瞬かせているはずだった。だが、その奥のどこかに、まだ見ぬ誰かの、微かな声にならない声が、確かに混ざっている。
日常は、戻ってきた。薬草の匂い、ティナの笑い声、ダグの不器用な優しさ、ハンナの静かな見守り。そのすべてが、かけがえのないものだと、ノアは、改めて感じていた。
それでも――この穏やかさの向こうに、まだ何かが、自分を待っているような気がしてならなかった。
眠りに落ちる直前、ノアの脳裏に浮かんだのは、遠い誰かの、姿の見えない輪郭だった。
自分がそうであったように、その誰かにも、きっと、名前があり、暮らしがあり、悲しみがある。会ったこともないその人のことを、ノアは、ただじっと、案じ続けていた。




