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異世界少年と謎の物体と研究室の仲間たち〜森で拾った箱の向こうは現代日本でした〜  作者: gachapin2223


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第87話 帰ってきた日常

朝露に濡れた薬草の葉を、指先でそっと払う。その感触が、こんなにも懐かしく感じられるとは、ノアは思ってもみなかった。


「今日は、この辺りまでにしとくかい」


隣で腰を屈めていたハンナが、籠の中身を確かめながら言った。


「うん。もう十分」


村に戻ってから、半月ほどが経っていた。王都での日々が、まるで随分昔の出来事のように感じられる朝もあれば、ふとした瞬間に、あの緊迫した記憶が鮮やかに蘇る朝もある。二つの感覚が、ノアの中で、まだ落ち着かずに揺れていた。


◇


昼過ぎ、村の外れの家から、腹を壊した子どもがいると呼ばれた。ノアは、薬箱を提げて駆けつけ、柳瀬から教わった手順どおりに、経口補水の作り方を母親に教えた。


「塩と、砂糖を、この加減で。……一気にじゃなく、少しずつ飲ませてあげてください」


「ありがとうねえ、ノア。腕を上げたねえ」


年配の女が、しみじみと言った。ノアは、少し照れくさくなって、頭を掻いた。王都で色々なことがあっても、村での仕事は、変わらずそこにあった。むしろ、その変わらなさが、今のノアには、何より心地よかった。


◇


「ノア、こっちこっち!」


畑の向こうから、ティナが手を振っていた。傍らには、ダグが、いつものように無愛想な顔で立っている。


「今日も、薬草採り?」


「うん。ばあちゃんと」


「相変わらず、真面目だな」


ダグが、鍬を担ぎ直しながら、ふっと笑った。その口調に、以前と変わらない気安さがあることが、ノアには、何より嬉しかった。王都で色々なことがあった後でも、ここでは、自分はただの「ノア」でいられる。


「今度また、境の樹に一緒に行ってもいい?」


ティナが、少し声を落として尋ねた。


「うん、もちろん」


「あんたが向こうで頑張ってた間、あたしたちも、あそこで祈るくらいしかできなかったから。……ちゃんと、お礼を言いたくて」


ティナの言葉に、ノアの胸が、じんわりと温かくなった。


◇


その帰り道、村長の家に立ち寄ると、村長が、書き物の手を止めて迎えてくれた。


「境界事務局とやらから、また文が届いた」


差し出された書状には、丁寧な字で、村の様子伺いと、何かあればいつでも連絡をという旨が記されていた。差出人は、アルバンだった。


「随分と、律儀な男だな」


村長が、苦笑交じりに言った。


「王都の外まで、こうして気にかけてくれるとはね」


「ちゃんとした人なんです」


ノアが答えると、村長は、静かに頷いた。


「お前が、そう言うなら、信じよう」


◇


夜、家の中が静まり返ると、ノアは、荷袋から箱を取り出す。これも、王都から戻ってからの、新しい日課だった。


「今日も、始めるか」


キョウジュの声が、枠の向こうから響いた。


「うん」


ノアは、目を閉じ、静かに息を整えた。短く、境の樹の方角へ意識を向ける。ほんの数秒。それだけで、体の奥に、じんわりとした熱が生まれる。


「――そこまでだ」


キョウジュの声に、ノアは、意識を引き戻した。腕輪の石は、わずかに色を変えていたが、危険な域には達していない。


「今日の分は、これくらいにしておこう。無理はするな」


「うん、分かってる」


短く共鳴し、長く休む。母が成し得なかったやり方を、ノアは、一歩ずつ、体に馴染ませていた。怖さは、まだ消えない。それでも、繰り返すたびに、確かな手応えが積み重なっていくのを感じていた。


◇


「調子は、どうだ」


ある夜、クドウが尋ねた。


「悪くないよ。腕輪も、まだ一度も、赤くはなってない」


「上出来だ。……その調子で、焦らずやってくれ」


ミオの声も続いた。


「無理させないでね、キョウジュ」


「分かってる。エレナさんのケースを、忘れちゃいない」


その一言に、部屋の空気が、少しだけ静かになった。母の名前は、今も、この繋がりの中に、そっと生き続けている。


◇


「――一つ、報告があります」


ある晩、ソラの声が、いつもより硬く響いた。


「例の、別の反応のことです」


ノアの手が、止まった。


「あれから、ずっと続いてる?」


「はい。頻度も強さも、目立って変化はありません。ただ、消えることもなく、断続的に記録され続けています」


村に帰り着いた夜、祝いの席で聞いた、あの言葉が、頭の中に蘇る。自分と違う波形を持つ、誰か。


「その人が、どこにいるのか、まだ分からないんだよね」


「はい。地理的な特定には、至っていません」


ノアは、しばらく、箱を見つめたまま、黙っていた。


「もし、その人が」


「うん?」


「僕と同じように、独りで苦しんでたら」


言葉の続きは、出てこなかった。だが、キョウジュにも、ミオにも、その先にある思いは、十分に伝わったようだった。


「今は、分からないことだらけだ」


キョウジュの声が、静かに答えた。


「だが、何か分かったら、必ず伝える。……お前が、それにどう向き合うかは、そのときに、一緒に考えよう」


「うん」


ノアは、頷いた。村に戻り、日常を取り戻しながらも、心のどこかで、まだ何かが終わっていないという感覚が、拭えずにいた。


◇


その夜、床に就く前、ノアは、窓の外に見える森の輪郭を、しばらく眺めていた。


境の樹は、今夜も、いつもと変わらぬ穏やかな光を、静かに瞬かせているはずだった。だが、その奥のどこかに、まだ見ぬ誰かの、微かな声にならない声が、確かに混ざっている。


日常は、戻ってきた。薬草の匂い、ティナの笑い声、ダグの不器用な優しさ、ハンナの静かな見守り。そのすべてが、かけがえのないものだと、ノアは、改めて感じていた。


それでも――この穏やかさの向こうに、まだ何かが、自分を待っているような気がしてならなかった。


眠りに落ちる直前、ノアの脳裏に浮かんだのは、遠い誰かの、姿の見えない輪郭だった。


自分がそうであったように、その誰かにも、きっと、名前があり、暮らしがあり、悲しみがある。会ったこともないその人のことを、ノアは、ただじっと、案じ続けていた。


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