第86話 鍵の少年
十日間の道のりを経て、見慣れた村の輪郭が、地平線に現れた。
長い旅だった。王都での日々を思い返せば、恐怖と発見と、そして、多くの出会いが、目まぐるしく胸をよぎった。馬車に揺られながら、ノアは、幾度となく、箱をそっと撫でた。もう、失う心配はない。それでも、その重みを確かめずにはいられなかった。
「――見えた」
ノアの声が、震えた。隣を歩くハンナも、足取りを速めた。
村の入り口に近づくにつれ、遠くに、小さな人影が見えた。それが、次第に、大きく、はっきりとした輪郭を持ち始める。
「ノア――!」
叫び声と共に、影が、こちらへ駆けてきた。ティナだった。その後ろから、ダグも、大股で追いついてくる。
◇
「遅かったじゃないか、まったく!」
ティナが、抱きつくようにして、ノアの腕を掴んだ。目には、涙が浮かんでいる。
「ごめん。色々、あって」
「知ってるよ。……境の樹が、教えてくれた」
ティナの言葉に、ノアは、はっとした。
「あの光、みんなにも見えてたの」
「見えたなんてもんじゃない。すごい騒ぎだったんだから」
ダグが、ノアの肩を、軽く小突いた。
「無事で、良かった」
その一言に込められた重みを、ノアは、しっかりと受け止めた。
◇
村長を始め、村人たちが次々と集まってきた。歓声と、涙と、抱擁。長い不在の間に積もった心配と安堵が、一気に噴き出すような、賑やかな帰還だった。
村長が、ノアの前に立った。
「よくぞ、戻った」
その声には、労いと、深い安堵があった。
「聞くべきことは、山ほどある。だが、それは、落ち着いてからでいい。……まずは、休め」
「はい」
ノアは、深く頭を下げた。それから、少し迷って、付け加えた。
「村長さん、色々、心配かけて、ごめんなさい」
村長は、ゆっくりと首を振った。
「謝ることはない。……お前が、危険を承知で、正しいと思う道を選んだこと。それは、この村の誇りだ」
その一言に、ノアの胸が、じんと熱くなった。
◇
その夜、ノアは、一人で、境の樹へ向かった。
月明かりの下、樹は、いつもと変わらぬ穏やかな光を、静かに瞬かせていた。荒々しさも、痛みも、もう、そこにはなかった。
「母さん」
ノアは、樹の根元に、そっと膝をついた。
「帰ってきたよ。……色んなことが、分かった。母さんが、どんな人だったかも。どうして、あんなに苦しんだのかも」
樹の光が、ふわりと、揺れた気がした。
「僕は、母さんみたいに、独りでは、抱え込まなかった。ちゃんと、みんなに、助けてもらった。……それだけは、母さんに、伝えたかった」
涙が、頬を伝った。悲しみは、まだ、消えていない。それでも、そこには、確かな誇らしさも、共にあった。
◇
「一人か」
不意に、背後から声がした。振り返ると、ハンナが、ゆっくりと歩いてきていた。
「ばあちゃん」
「あんたが、ここに来る頃だと思ってね」
ハンナは、ノアの隣に、静かに腰を下ろした。二人で、しばらく、樹の光を見つめていた。
「エレナも、こうして、この光を見てたんだろうね」
「うん」
「あの子は、独りだった。あんたは、違う。……それだけのことが、こんなに、大きな違いを生むんだね」
ハンナの声に、静かな感慨があった。
「なあ、ばあちゃん」
「何だい」
「これから、どうなるのかな。境の番人としての、僕」
ハンナは、しばらく、考えるように黙っていた。
「分からないさ、そんなの。……だけど、一つだけ、言えることがある」
「何?」
「あんたが、あんたのままでいる限り、あたしは、隣にいるよ。それがどんな道でもね」
その言葉に、ノアの胸が、温かく満たされていった。
◇
翌日、村の広場で、簡素だが心のこもった宴が開かれた。ガルドが、また新しい肩掛け袋を用意していた。
「今度のは、もっと頑丈だ。……何が起きても、壊れないようにな」
「ありがとう、ガルドさん」
エーラが、山盛りの料理を、次々と運んでくる。
「たくさん食べて、たくさん寝るんだよ。王都での苦労を、全部、取り返すくらいに」
村中が、ノアの帰還を、心から喜んでいた。
◇
宴の合間、ノアは、境の樹の下で、箱を取り出した。
枠の向こうに、いつもの顔ぶれが並んだ。
「村、賑やかだな」
キョウジュが、笑いながら言った。
「うん。みんな、待っててくれた」
ミオが、目を細めた。
「良かったね、本当に」
その時、ソラの声が、静かに割り込んだ。
「一つ、報告があります」
「何?」
「境の樹のセンサーに、これまでとは異なる、微弱な共鳴反応が、断続的に記録されています。ノアさんのものとは、明らかに波形が違います」
その言葉に、部屋の空気が、わずかに引き締まった。
「別の……」
ノアが、呟いた。
「境の番人が、他にもいる、ってこと?」
「断定はできません。ですが、可能性は、十分にあります」
ミレナの言葉を思い出す。世界のあちこちに、境界の綻び目があるという、あの話。自分と同じ何かを抱えた誰かが、他にもいるのかもしれない。
「もし、そうだとしたら」
ノアは、静かに、しかし、はっきりと言った。
「今度は、僕から、力になりに行きたい」
その言葉に、枠の向こうの誰もが、少しの驚きと、それを上回る誇らしさを浮かべた。
◇
「出来損ない」から始まった、この長い旅。
ノアは、もう、その言葉に、怯えることはなかった。魔力がないことも、境の番人という特異な力も、どちらも、確かに自分の一部だ。だが、それがすべてではない。
薬草の知識を愛し、誰かの痛みに寄り添おうとする、ただのノアという少年。それこそが、自分の本当の姿だと、今は、迷いなく言えた。
畑には、クドウから届いた種が、変わらず芽吹いている。村には、ダグやティナが、変わらず笑っている。王都には、アルバンやガレン、ルカという、新しい絆が生まれた。そして、境の樹の向こうには、いつでも駆けつけてくれる仲間がいる。
そのすべてが、今のノアを、形作っていた。
村の灯りが、夜の闇の中、暖かく揺れていた。境の樹の光も、遠く王都の仲間たちの声も、すべてが、確かに、ノアと繋がっていた。
一つの謎が解けた先に、新しい光が、また一つ、静かに瞬き始めていた。まだ見ぬ誰かの元へ、いつか、その光が届く日を、ノアは、静かに、思い描いていた。




