第85話 ヴェルナーの結末
聖具の間に、駆けつけた兵たちの怒声と足音が満ちた。アルバンが、剣を鞘に収めたまま、静かに前へ進み出る。
「ヴェルナー様の暴走と、それを鎮めた顛末を、すべて話す」
その声に、迷いはなかった。
ガレンとルカが、崩れ落ちたヴェルナーを一瞥した後、疲れた様子で壁にもたれかかった。ノアとハンナは、駆けつけた神殿の医官に、あちこちを検められた。大きな怪我はない。ただ、深い疲労だけが、体の芯に残っていた。
ヴェルナーは、担架で運ばれていった。誰の目にも、それが只事ではないことは明らかだった。
「本当に、大丈夫なのかい」
ハンナが、医官の手当てを受けながら、ノアの顔を覗き込んだ。
「うん。……疲れただけ」
そう答えながらも、ノアの手は、まだ、微かに震えていた。腕輪の石は、赤みが薄れ、元の色へと戻りつつある。危機は、去った。それでも、体の奥に刻まれた緊張は、簡単には解けそうになかった。
医官が、ノアの脈を取りながら、感心したように呟いた。
「これほどの騒動の後にしては、驚くほど、安定しておる。……何か、特別な手当てでも受けていたのか」
「遠くの、知り合いに」
ノアは、それだけ答えた。詳しくは、説明のしようがなかった。医官は、怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
◇
それから数日、王都は、奇妙な静けさに包まれていた。
地鳴りと光は、街の人々の記憶に、消えない印象を残していた。表向きは「神殿の設備の不具合」とされたが、噂は、様々な形で市中を巡っていた。
その間、ノアとハンナは、領主メルヴィンの屋敷に留め置かれた。今度は、脅かされるためではなく、守られるためだった。
「教会内部で、審問が進んでいる」
アルバンが、屋敷を訪れて、そう告げた。憔悴した顔つきだったが、その目には、以前にはなかった、確かな芯のようなものが宿っていた。
「私の証言、記録保管室の搬出許可書、そして――何より、あの日、街の誰もが見た光と揺れ。もう、隠しようがない」
◇
「枢機卿の座を、退くことになった」
数日後、再び訪れたアルバンが、静かに告げた。
「表向きは、健康上の理由による勇退、とされる。だが、実質は、更迭だ。境界に関わるすべての職務から外され、辺境の修道院で、静かな生涯を送ることになる」
「それだけ、ですか」
ノアの問いに、アルバンは、少し複雑な表情を浮かべた。
「教会は、大きな混乱を、公にはしたくない。ヴェルナー様ご自身も、罪人として裁かれるより、静かに身を引く道を、自ら選ばれた。……それが、正しい終わり方かどうかは、私にも分からない」
「アルバンさんは、どう思うんですか」
「軽すぎる、とは思う」
アルバンは、正直に答えた。
「だが、これ以上を望めば、教会そのものへの不信が、際限なく広がる。……この国にとっても、境界に関わる者たちにとっても、静かな決着が、今は最善なのだろうと、自分に言い聞かせている」
ハンナが、腕を組んだまま、静かに口を挟んだ。
「あたしは、正直、それでいいのか、まだ迷ってるよ。あの人のせいで、ノアも、街の人たちも、危ない目に遭ったんだから」
「それは、私も同じ気持ちです」
アルバンは、深く頷いた。
「ですが、憎しみだけで裁いても、次に同じ過ちを繰り返さない保証には、なりません。……大切なのは、二度と、こういう事態が起きない仕組みを作ることだと、私は思っています」
ハンナは、しばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吐いた。
「……あんたが、そこまで考えてるなら、あたしは、口を挟むまい」
◇
出発の前日、ノアは、アルバンに頼んで、一度だけ、ヴェルナーに会いに行った。
質素な一室に、かつての威厳を纏っていた男が、静かに座っていた。窓の外を見つめる横顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。
「……会いに来るとはな」
ヴェルナーは、力なく笑った。
「恨み言でも、言いに来たか」
「いいえ」
ノアは、まっすぐに、その目を見た。
「聞きたかっただけです。……後悔してますか」
長い沈黙があった。
「後悔、か」
ヴェルナーは、窓の外に視線を戻した。
「境界の力を、正しく導く必要がある。その信念は、今も変わらない。……だが、やり方を、間違えた。それだけは、認めよう」
「僕は」
ノアは、静かに続けた。
「一人でやらなかったから、うまくいったんだと思います。あなたは、一人で、やろうとした」
ヴェルナーは、しばらく、何も言わなかった。やがて、微かに、頷いたように見えた。
「……その言葉、覚えておこう」
それ以上、多くは語られなかった。ノアは、一礼して、部屋を後にした。
◇
「私は」
屋敷の庭で、アルバンが、静かに切り出した。
「新設される『境界事務局』とやらの、責任者を任されることになった」
「境界事務局?」
「境の番人と呼ばれる者たちへの対応を、今後は、秘密裏の排除でも、独占的な管理でもなく、正しい知識と、支援を軸に行う。……そのための、新しい部署だ」
アルバンの声には、これまでにない、静かな誇りがあった。
「お前と、お前の母上のことがなければ、生まれなかった役職だ」
「アルバンさんなら、きっと、うまくやれます」
ノアの言葉に、アルバンは、少し照れくさそうに笑った。
◇
領主メルヴィンからも、正式な言葉があった。
「此度の働き、見事であった」
メルヴィンは、いつもの尊大さの中に、僅かながら、本物の敬意を滲ませていた。
「そなたを我が領の民と主張したこと、間違いではなかったと、証明してくれたな」
「ありがとう、ございます」
ノアは、深く頭を下げた。打算あってのことだとは、分かっている。それでも、この結果には、確かな価値があった。
◇
出発の朝、神殿の門前に、見送りの顔ぶれが揃った。
「王都に来るときは、また、声をかけろよ」
ガレンが、ぶっきらぼうに言った。
「メルヴィン様の使いで、俺も、たびたびこの街には来る」
「はい。……ガレンさん、本当に、ありがとうございました」
「礼はいい。……お前の顔、あの記録保管室で見た顔を、忘れられなかっただけだ」
ガレンは、そう言って、目を逸らした。
ルカが、軽く肩をすくめた。
「俺は、また、伝手を頼りに、あちこち回る。……だが、次にこの国のどこかで、お前の噂を聞いたら、必ず、会いに行くさ」
「待ってます」
ノアは、笑顔で答えた。
アルバンが、最後に、静かに歩み出た。
「境界事務局の仕事が軌道に乗ったら、一度、村を訪ねたいと思っている。……お前の暮らす場所を、この目で見ておきたい」
「いつでも、来てください」
ノアは、深く頭を下げた。この数ヶ月で出会った人たちの顔を、一人一人、目に焼き付けるように見つめた。敵だった者が、味方になった。見知らぬ他人が、かけがえのない誰かになった。その積み重ねの重さを、ノアは、今、確かに噛みしめていた。
◇
その夜、境の樹越しの枠に、キョウジュたちの顔が並んだ。
「明日から、村へ向かう」
ノアが告げると、枠の向こうから、歓声にも似た声が上がった。
「やっとだな」
キョウジュの声が、感慨深く響いた。
「長い旅だった。……本当に、よくやった」
「うん。みんなのおかげで」
ノアは、箱を、そっと抱きしめた。
すべてが、解決したわけではない。境界の正体も、その先にあるものも、まだ、知らないことばかりだ。
それでも、今は。
母が辿り着けなかった場所に、独りではなく、確かな仲間と共に立てたこと。それだけで、十分だった。
窓の外、王都の夜空に、星が瞬いていた。明日には、あの空の下を、村への道が始まる。




