第84話 開いた境界
聖具の間に、静けさが戻っていた。
裂け目だった場所には、今、境の樹の根元で見るのと同じ、穏やかな光が、ゆっくりと明滅している。荒々しさは、もう、どこにもなかった。
「これが……」
アルバンが、言葉を失ったまま、その光を見つめていた。ガレンとルカも、荒い息を整えながら、同じ光に目を奪われている。
「本当に、これが、境ってやつか」
ルカが、掠れた声で呟いた。
◇
そのとき、光が、ふわりと、輪郭を広げた。
小さな箱の枠越しではない。まるで、部屋の壁の一部が、そのまま向こう側と繋がったかのように、光は、大人の背丈ほどの大きさにまで広がっていった。
その中に、人影が浮かび上がる。
「――え」
ノアの目が、大きく見開かれた。いつもの小さな枠越しではない。輪郭も、表情も、はっきりと見える。
「ノア!」
キョウジュの声が、光の向こうから、まっすぐに響いた。その隣に、ミオ、クドウ、フウタ、ヤナガセの姿もあった。誰もが、身を乗り出すようにして、こちらを見つめている。
◇
「見えて、ます」
ノアの声が、震えた。
「いつもより、ずっと、はっきり」
「こっちもだ」
キョウジュが、声を詰まらせながら答えた。
「境が、正しく共鳴したことで、繋がりそのものが、一時的に強まってるんだと思う。……ノア、無事で、本当によかった」
ミオが、両手で口元を覆っていた。その目から、涙がこぼれ落ちるのが、はっきりと見えた。
「顔、ちゃんと見えるの、初めてかもね。こんなに、大きく」
「私も、ここに」
ハンナが、ノアの隣に進み出た。光の向こうの人々を、まじまじと見つめる。
「あんたたちが、あの子を、ずっと支えてくれてたんだね」
「こちらこそ、ハンナさんに、ノアを預けてもらってます」
ヤナガセが、深く頭を下げた。
◇
アルバンとガレン、ルカも、光の前に歩み寄った。
「初めまして、と言うべきか」
アルバンが、静かに言った。
「話には聞いていたが……本当に、いたんだな。もう一つの世界に」
「あんたらが、ノアを守ってくれてる連中か」
ガレンが、腕を組んだまま、光を見つめた。その声には、皮肉の棘は、もうなかった。
「正直、最初は、こいつの知識の出所が、ずっと気に食わなかった。ずるをしてるみたいに思えてな」
「ガレンさん……」
「だが、今は違う」
ガレンは、光の向こうの面々を、まっすぐに見た。
「お前らが、独りで抱え込まずに、繋がって、支え合ってきたから、ノアは、ここに立ってられる。……ずるじゃない。それだけの積み重ねだったんだな」
「世話をかけてる。……こっちからも、礼を言わせてくれ」
ルカが、片手を挙げて笑った。
「あんたらの科学とやらが、王都を救ったわけだ。今度、詳しく聞かせてもらいたいね」
光の向こうで、クドウが、照れくさそうに頭をかいた。
「別に、大したことは。……ノアが、頑張っただけだ」
◇
キョウジュが、そっと、光の縁に手を伸ばした。
「触れられるか、試してみても?」
「うん」
ノアも、手を伸ばした。指先が、光の膜に触れる。ひやりとした感触の向こう、確かに、何かが押し返してくるような、柔らかな抵抗があった。
そのまま、そっと、押し進める。光が、わずかに歪み、二人の指先が、確かに、触れ合った。
「……あったかい」
キョウジュの声が、震えていた。
「そっちの世界も、あったかいんだな」
「うん」
ノアの目から、また、涙がこぼれた。二十五年越しの繋がりが、今、初めて、指先の熱として、確かな形を持った瞬間だった。
◇
「完全に渡れる、というわけじゃ、まだない」
ソラの声が、静かに割り込んだ。
「境は、まだ、人が通り抜けられるほどには開いていません。これは、あくまで一時的な、強い共鳴の余韻です」
「分かってる」
ノアは、指先を、名残惜しむように、そっと離した。
「でも、今日、分かったことがある。……ちゃんと向き合えば、いつか、もっと近づける。母さんが、辿り着けなかった場所より、もっと先に」
光が、少しずつ、元の小さな枠の大きさへと、収まっていく。それでも、そこに宿るあたたかさは、少しも変わっていなかった。
◇
遠く、扉の外から、慌ただしい足音と、複数の声が近づいてきた。
「事態を確認する! 中の様子を報告しろ!」
アルバンが、剣を鞘に収め、静かに前へ出た。
「私が、説明する。……ヴェルナー様の暴走と、それを鎮めた顛末を、すべて」
その声には、迷いがなかった。
「大丈夫か」
ガレンが、低く尋ねると、アルバンは、小さく頷いた。
「これからが、本当の意味での、正念場だ。だが――」
アルバンは、ノアの方を振り返った。
「もう、恐れることはない。私は、私が見た真実を、正直に話すだけだ」
◇
同じ頃、アルダの森では、ダグとティナが、境の樹の異変が、ゆっくりと収まっていくのを見つめていた。
「……止まった」
ダグが、安堵の息を吐いた。
「終わった、のかな」
ティナが、樹に向かって、そっと手を合わせた。
「ノア、無事だといいね」
樹の枝先が、静かに、いつもの穏やかな瞬きへと、戻っていった。遠く離れた場所にいる友の無事を、その光は、確かに伝えているように見えた。
「あたし、ノアが帰ってきたら、真っ先に、この場所に連れてくる」
ティナが、涙をぬぐいながら、笑った。
「みんなで、ここに立ってたって、伝えたいから」
ダグも、頷いた。二人は、しばらくの間、静かになった樹を見上げ続けた。
◇
聖具の間に、朝の光が、静かに差し込み始めていた。
すべてが解決したわけではない。ヴェルナーの処遇も、教会の今後の対応も、これから先の話だった。
それでも、ノアの胸には、確かな手応えが残っていた。
母が辿り着けなかった場所に、独りではなく、仲間と共に、立つことができた。触れ合った指先のあたたかさは、まだ、消えていない。
窓の外から差し込む光の中、ノアは、静かに、深く息を吸い込んだ。
隣で、ハンナが、そっと肩に手を置いた。何も言わずとも、その温もりだけで、十分だった。これから先に待つものが何であれ、もう、独りで立ち向かう必要はない。ノアは、そのことを、今、確かな実感として、胸に刻んでいた。




