第83話 共鳴
扉の向こうに広がっていたのは、光ではなく、傷だった。
空気そのものが、裂けたように歪んでいる。白とも金とも言えない光が、その裂け目から、不規則に噴き出しては、部屋の壁や天井に、痛々しい影を落としていた。
部屋の中央、水晶を掲げた両腕を震わせながら、ヴェルナーが立っていた。豪奢な法衣は乱れ、額には脂汗が浮かんでいる。
「――くっ……」
「ヴェルナー様!」
ノアの声に、ヴェルナーが、ぎこちなく振り返った。その目には、驚きと、隠しきれない焦りが浮かんでいた。
◇
「なぜ、ここに……いや、どうでもいい」
ヴェルナーは、乾いた笑いを漏らした。
「見ての通りだ。水晶に残った、お前の残り香。それを、力ずくで引き出そうとした。……だが」
言葉が、途切れる。裂け目から漏れる光が、一段、強さを増した。ヴェルナーの体が、大きくよろめく。
「制御が、利かない」
「当たり前です」
ノアは、震える声を、懸命に絞り出した。
「これは、僕の力です。あなたのものじゃない」
「分かっている!」
ヴェルナーが、叫んだ。その声には、これまでの余裕は、微塵もなかった。
「分かっていて、なお、止められない。もう、閉じることさえ、できない状態だ」
◇
箱の枠から、キョウジュの声が、鋭く響いた。
「ノア、聞こえるか。水晶の反応、限界を超えかけてる。このままだと、裂け目が、もっと広がる」
「僕が、止められますか」
「分からない。だが」
キョウジュの声が、一瞬、詰まった。
「エレナさんは、独りで、これに立ち向かって、潰れた。……お前は、独りじゃない。俺たちが、ついてる」
ハンナが、ノアの手を、強く握った。
「あんたなら、できる。あたしは、そう信じてる」
ノアは、大きく息を吸った。恐怖は、消えていなかった。それでも、足は、もう震えていなかった。
◇
「ソラ、指示をくれ」
ノアは、腕の腕輪に、目を落とした。石の色が、じわりと、赤みを帯び始めている。
「まず、短く。呼吸を整えてから、裂け目に、意識を向けてください」
ソラの声が、落ち着いた調子で、答えた。
「無理に押し返そうとしないこと。……分散させるように。エレナさんのデータで見えた、あの波形を、思い出して」
ノアは、目を閉じた。裂け目から漏れる光と、耳の奥に響く唸り。恐ろしいほど、境の樹の前に立ったときの感覚に、似ていた。
だが、今は、違う。あの頃の自分ではない。
一歩、前に出た。
◇
同じ頃、回廊では、まだ攻防が続いていた。
「いつまで、粘るつもりだ!」
兵の怒号に、ガレンが、剣で受け流しながら答えた。
「あと、少しでいい。……あいつが、答えを出すまでだ」
アルバンは、印章を握りしめたまま、駆けつけた別の兵の前に立ちはだかった。
「これ以上の狼藉は、教会の名において許さん」
「教会の名だと? お前は、ヴェルナー様に逆らう気か」
「私は、正しいと信じることに従うだけだ」
アルバンの声に、迷いはなかった。
ルカは、狭い柱の陰から陰へ、身軽に飛び移りながら、兵たちの気を逸らし続けていた。
「こっちだ、間抜けども!」
軽口とは裏腹に、その額には、玉のような汗が浮かんでいた。三人とも、限界が近いのは、誰の目にも明らかだった。それでも、誰一人、下がろうとはしなかった。
◇
意識を、そっと、裂け目に触れさせる。
痛みにも似た衝撃が、体の奥を駆け抜けた。思わず、うめき声が漏れる。ハンナの手が、それでも、離れなかった。
「大丈夫。もう一度、短く」
キョウジュの声が、すぐ側にあるかのように、届いた。
ノアは、意識を、いったん引いた。荒い呼吸を整え、また、そっと触れる。短く、また引く。繰り返すうちに、裂け目の暴れ方が、わずかに、収まり始めた。
「効いてる」
クドウの声が、興奮を隠しきれない調子で響いた。
「波形が、安定してきてる。ノア、そのままのペースで」
◇
「ばかな……」
ヴェルナーが、崩れ落ちるように、膝をついた。
「力ずくでも、開けなかったものが。ただ、少しずつ触れて、離れるだけで……」
「あなたは、無理に、開けようとした」
ノアは、額に浮いた汗を拭う余裕もなく、続けた。
「僕は、無理に、閉じようともしません。……ただ、ちゃんと、向き合うだけです」
その言葉に、ヴェルナーは、何かを言いかけて、やめた。
裂け目が、ゆっくりと、しかし確かに、その荒々しさを失っていく。噴き出していた光が、境の樹のあの、あたたかな瞬きへと、変わっていった。
◇
「母さん」
ノアは、光を見つめながら、そっと、呟いた。
「あなたが、独りで抱えてたもの。今、僕は、みんなと一緒に、向き合ってる」
涙が、頬を伝った。それでも、意識は、途切れさせなかった。短く触れて、離れる。その繰り返しを、丁寧に、丁寧に、続けていく。
「もう少しだ」
ヤナガセの声が、静かに響いた。
「お前は、もう、母さんが辿れなかった場所に、立ってる」
ノアの胸の奥に、熱いものが、込み上げた。悲しみと、誇らしさが、綯い交ぜになって、体の隅々まで広がっていく。
◇
裂け目が、最後の瞬きを残して、静かに、閉じた。
いや、閉じたのではない。かつてなかったほど穏やかに、そこに「在る」ものへと、変わっていた。
部屋を満たしていた重苦しい唸りが消え、代わりに、境の樹の根元でだけ感じられる、あの優しい静けさが、辺りに広がった。
ノアは、その場に、崩れ落ちるように座り込んだ。ハンナが、すぐさま、体を支える。
「よくやったね」
ハンナの声が、震えていた。涙が、皺の刻まれた頬を、いくつも伝っていた。
◇
扉が、勢いよく開いた。
「ノア!」
アルバンが、剣を握ったまま、飛び込んでくる。その後ろに、ガレンとルカの姿もあった。三人とも、息が上がり、体のあちこちに、擦り傷が見えた。
「無事、なのか」
「はい……多分」
ノアは、力なく笑った。膝の上の箱から、キョウジュの声が、安堵に満ちた調子で響く。
「よくやった、ノア。本当に、よくやった」
その声に、部屋に集まった全員の顔に、確かな安堵が広がった。倒れ込んだヴェルナーだけが、静かに、その場に取り残されていた。




