第9話 工藤さんの道具
その朝の研究室は、いつもと少し空気が違った。
黒川教授が、椅子を持ってきて輪を作るよう全員に言った。実験の打ち合わせのときにやる形だ。モニターの前ではなく、テーブルを囲んで向き合う。
「今日は少し、話をしよう」
教授が静かに言った。
「ノア君との交流が始まって、もう一週間以上が経った。植物の交換も始まり、医療知識の共有もした。次のステップとして——向こうへ物を送ることを、もっと本格的に考えていい段階だと思っている」
「もう送ってますけど」
フウタが言った。
「植物図鑑と色鉛筆と、ノアが使ってる黒い棒と」
「そうだ。だからこそ、今のうちに整理しておきたい」
教授は眼鏡を外して、テーブルに置いた。
「何を送っていいか。何を送ってはいけないか。私たちなりの基準を、ちゃんと言葉にしておく必要がある」
誰も、すぐには口を開かなかった。
◇
「まず、前提から確認しましょう」
美緒が口火を切った。
「私たちが今やっていることは、異なる物理法則を持つ別世界との交流です。向こうには魔法があり、私たちの知らない生態系がある。私たちが送ったものが、向こうの世界に何をもたらすか——完全には予測できない」
「送らないのが一番安全、という話になるか?」
工藤が言った。
「それは違うと思う」
美緒は首を振った。
「ノアはすでに私たちからの知識で人を助けた。送ることが悪いんじゃなくて、何を送るかが問題だと思う」
「同意だ」
教授が頷いた。
「では、何を基準にする?」
フウタが手を挙げた。
「向こうの世界の秩序を壊すものはダメだと思います。たとえば、武器とか」
「当然だ」
工藤が即答した。
「金属加工品や火薬類は論外。それから——医薬品も、慎重にすべきだ」
「薬はダメなんですか?」
「完成品の薬剤をそのまま送るのは危険だ。成分が向こうの人間の体に合うかどうか、誰にもわからない。アレルギーや副作用のリスクを完全には排除できない」
「じゃあ、コラルの件みたいに『煮沸する』という知識を伝えるのは?」
「それは構わない。素材はあちらのもので、知識だけをこちらが提供する。向こうの世界のものを使って、向こうの人間が判断する。それなら許容範囲だ」
美緒はメモを取りながら頷いた。
「まとめると——知識の共有は基本的にOK。完成品の薬剤や武器はNG。どうしても物を送る場合は、向こうの生活の延長線上にあるもの、ということかな」
「あとは」
教授が付け加えた。
「向こうでの価値が、社会のバランスを崩すほど大きくなるものも避けたほうがいい。たとえば、大量生産されたものを大量に送るとか、希少な資源を一気に持ち込むとか」
「ノアが突然、村で一番の金持ちになるようなことはしないということですね」
楓太が言った。
「そういうことだ。ノアが自分の力で少しずつ変わっていけるよう、あくまでも補助するのが私たちの役割だ」
◇
「もう一つ、大事な話がある」
工藤が端末を開いた。
「衛生の問題だ」
全員が、工藤を見た。
「転送装置の転送窓には、センサーと滅菌機構が内蔵されている。通過する物体に対して、リアルタイムで検査を行う設計にしてある」
「どんな検査をするんですか?」
「病原菌、ウイルス、既知の毒物、有害化学物質——それらの有無をセンサーで確認する。検出された場合は転送が自動的に停止する。さらに、紫外線照射による滅菌処理を全ての転送物に対して行っている」
「今まで送ったものも?」
「全部だ。図鑑も黒い棒も植物サンプルも、転送窓を通った瞬間に処理されている」
美緒が少し安堵した表情をした。
「逆方向も? ノアから送られてくるものも?」
「もちろん。双方向で作動する。あちらの世界にも、私たちの知らない菌やウイルスがある可能性がある。向こうからサルベ草が届いたときも、窓を通過する段階で検査と滅菌が済んでいる」
「つまり——どちらの方向でも、有害なものを持ち込まない仕組みになっている」
「設計上はそうなっている。ただし、センサーが対応できるのは既知の物質に限る。未知の化合物や、あちらの世界固有の物質については保証できない部分がある」
「それは、ノアにも伝えたほうがいい」
教授が言った。
「あちらからこちらへ送るものについても、同じ考え方をお互いに持っておくべきだ。有害かもしれないものは送らない——それは双方が守るべき約束だ」
◇
「ノアに話すか」
美緒がカメラに向き直りながら言った。
「今日の議論の結論を」
「全部は難しいな」
工藤が腕を組んだ。
「翻訳の精度もある。ただ——物のやり取りに関するルールだけは、ちゃんと伝えておくべきだ」
「賛成です」
楓太が頷いた。
「ノアも知っておいたほうがいい。こっちが何を考えて送っているか」
「じゃあ——ノアが来たら、話しましょう」
◇
箱に触れると、いつもより早く光が走った気がした。
「おはよう、ノア、ティナさん」
「おはよう、ソラ」
「おはよ! ミオたちは?」
ティナが枠を覗き込んだ。
「います。今日は少し話したいことがあると言っています」
「なに?」
ミオが枠の前に現れた。隣にクドウが来て、フウタも顔を出した。奥に、目の周りに何かを付けた老人——教授——がいるのも見えた。
「ノア。ティナも。少し、大事な話をしたい」
ミオの声が、少しだけ改まっていた。
「なに?」
「物を送ること——について。こちらで、話し合った」
「……うん」
「いくつか、約束を、作りたい。ルール、ではなくて——お互いの、考えかた、として」
僕は姿勢を正した。
ミオが、静かに話し始めた。
ソラが翻訳しながら言葉を繋ぐ。
話の内容は、こうだった。
物を送るときは、お互いの世界の秩序を壊すものは送らない。武器や、持つ者が一気に強くなりすぎるものは送らない。こちらの判断を押しつけず、あくまでノアたちが自分で選べるよう、補助する形で送る。
そして——もう一つ。
「窓を通るとき、悪いものを取り除く仕組みがある。小さな、目に見えない生きものや、毒になるものを感知して、止める」
「止める?」
「悪いものを持ち込まない、ということが大事だ。こちらからそちらへ。そちらからこちらへ。どちらも同じ」
「……それは、そっちが決めることじゃないの?」
ミオが、少し目を細めた。
「どういう意味?」
「仕組みがあるなら、こっちが気にしなくても、仕組みが止めてくれるんじゃないの」
「仕組みは、知らないものには対応できない。あちらの世界にしかないものに、この窓が気づかない場合もある。だから——お互いが意識することが大事」
僕は少し考えた。
目に見えない生き物が人を病気にする、という話をソラに聞いたばかりだった。水の中にいる、僕には想像もできなかったもの。
「わかった」
「ノアからこちらへ送るときも、おかしいと思ったら言ってほしい。私たちも、そうする」
「うん」
ティナが隣でうんうんと頷いていた。
「ルールって感じじゃないね」
ティナが僕に小声で言った。
「約束みたいな感じ」
「そう。なんか、それのほうがいい気がする」
◇
話が一段落したころ、クドウが立ち上がった。
枠の外で何かを取ってくる気配がして、戻ってきたとき、小さなものをいくつか手に持っていた。
「工藤さんが送りたいものがあるって」
楓太が説明した。
「今日の話を踏まえて——これなら問題ないって」
「なに、送ってくれるの?」
工藤が一つ目を転送窓に近づけた。
隙間から、最初に出てきたのは——小さくて平たい、銀色の道具だった。
片側が薄く、鋭くなっている。
「刃物だ」
思わず声が出た。
金属なのに、村の鍛冶が作るものより、ずっと薄くて均一だ。柄の部分は滑らかで、手に馴染む形になっている。
「植物を採るとき、使える。茎を切るのに」
ミオが言った。
「根を傷つけないように——切るのが、難しいことがあるって、ノアが言ってたから」
「これで——根を残したまま、切れる?」
「たぶん。クドウが選んだ」
工藤が無言で頷いた。
僕は刃物を手に取って、近くの細い草茎に当ててみた。
するり、と。
抵抗なく、切れた。
「すごい」
思わず声が出た。
ティナが覗き込んできた。
「うわ、すごい切れ味」
「植物採取用だって。根を残せるように」
「ノアのために選んだんだね、クドウさんが」
枠の中でフウタが何かを言った。クドウが「うるさい」という顔をしている。でも——否定はしていなかった。
◇
次に出てきたのは、丸くて透明な、小さな道具だった。
一方が膨らんでいて、レンズのような形をしている。持ち手がついていて、葉に近づけると——
「わあ」
ティナが声をあげた。
葉の表面が、大きく見えた。
細かい毛。葉脈の枝分かれ。普段は目を近づけてもわからない、小さな構造が、はっきりと見えた。
「これで——もっと詳しく、見られる?」
「そうです」
ソラが答えた。
「植物の表面の細かい構造が確認できます。採取した植物の同定にも役立ちます」
「同定?」
「どの植物かを特定すること。葉の毛の向きや密度が、種によって異なる場合があります」
僕は透明な道具を葉の上で動かした。角度によって、見え方が変わる。
母さんが、よく言っていた。
「ノアは目がいい。細かいものをよく見る」
でも——この道具を使えば、もっと細かく見える。
今まで勘で判断していたものが、もっとはっきりわかるかもしれない。
「ありがとう、クドウ」
枠の中でクドウが、少し顎を引いた。
◇
最後に出てきたのは、小さな袋だった。
中を開けると、粒が入っていた。丸くて、茶色い。
「種だ」
「そうです」
ソラが言った。
「ミオさんが選びました。ノアの世界で育てられるかどうか、わからない。でも——試してみてほしいと」
「何の種?」
「こちらの世界では薬用として使われる植物の種です。いくつかの種類が混じっています。もし芽が出たら、育て方も教えます」
「育つかどうかわからないのに?」
「育つかどうかを知ることも、大事なことだから」
ミオが枠の中で、少し笑いながら言った。
「ノアが——失敗しても、おこらない」
「怒るわけない」
「育ったら——おしえて」
「うん」
僕は種の袋を、大切に籠の中へしまった。
三つの道具。刃物、透明な道具、種。
どれも小さい。どれも、重くない。
でも——どれも、僕のために選ばれたものだった。
◇
帰り道、ティナが透明な道具を借りて、道端の草を次々と覗き込んでいた。
「これ面白い! この葉、こんなに毛があったんだ!」
「返して」
「もうちょっとだけ。ねえ、この草なんて名前?」
「カゼリ草。解熱に使う」
「へえ。クドウさん、職人気質って感じだよね」
「そう?」
「だって、ノアが植物採取してるの知ってて、一番使えそうなものを選んでくれたじゃない。しかも黙って。説明もフウタさんに任せて」
僕は少し考えた。
「クドウさんは、口が悪い」
「でも、選んでくれたのはクドウさんでしょ」
「……そうだな」
ティナが透明な道具を返しながら、笑った。
「いい人たちだよ、みんな」
「うん」
「ノア、最初怖くなかった? あの箱」
「怖かった」
「でも逃げなかった」
「逃げたら——今日、なかった」
ティナがしばらく黙ってから、また笑った。
「そうだね。逃げなくてよかった」
僕も、そう思った。
逃げなくてよかった。
あの日、大樹の根元に近づいた自分を——今日初めて、素直に、褒めてやりたいと思った。




