第8話 見えない宝
翌朝、一番に向かったのはエーラの家だった。
森よりも先に。箱よりも先に。
扉を叩くと、昨日より少し顔色のいいエーラが出てきた。
「ノア。ちょうどよかった」
「コラルは?」
「昨日の夜から、少し楽になったみたい。今朝は粥を食べられたよ」
僕は、息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、ずっと息を詰めていたらしい。
「水は、続けて沸かしてる?」
「うん。言われた通りに。なんか、すっきりした味がする気がして」
「気のせいじゃないと思う。続けて」
「わかった。……ありがとね、ノア」
エーラが、静かな声で言った。
押しつけがましくない、さらりとした礼だった。それが、かえって胸に沁みた。
村の路地を歩きながら、昨日のティナの言葉を思い出した。
「ノアの知識でコラルちゃんが元気になったら、それが全部の答えだよ」
全部の答え、かどうかはまだわからない。でも——一つの答えは、出た気がした。
◇
「よかった!」
箱に触れてコラルの回復を伝えると、枠の中でフウタが声をあげた。
「煮沸、効いたんですね!」
「うん。粥、食べられたって」
「やった——!」
「フウタ、落ち着け」
クドウが制しながら、端末に何かを打ち込んでいる。でも、その横顔が珍しく、やわらかかった。
「ノア」
ミオが、こちらをまっすぐ見た。
「よかった。ほんとうに」
「ミオたちのおかげだ。目に見えないものの話、教えてくれなかったら、わからなかった」
「ノアが——うごいた。それが、いちばん大事」
そう言われると、返す言葉が見つからなかった。
隣でティナが、うんうんと大きく頷いている。
「ソラ」
しばらくして、クドウが口を開いた。
「目に見えない病原体の話、ノアにどこまで伝えられる?」
「基本的な概念なら。ただし、『菌』『ウイルス』といった語は対応する単語がノアの言語にないため、比喩的な説明になります」
「やってみてくれ」
ソラが、ゆっくりとした口調でノアに向けて話し始めた。
「ノア。水の中に、小さな——とても小さな——いきものがいます。目には見えない。でも、体の中に入ると、おなかをこわす。火で熱くすると、その小さないきものは死にます。だから、沸かした水は、きれいです」
「小さな、生きもの……」
「そうです。土の中にも、空気の中にも、いたるところにいます。ほとんどは害がない。でも、一部は体に悪い」
「魔法で見えたりは——しない?」
「私たちの世界では、特別な道具を使えば見えます。でも、道具がなくても——沸かすだけで十分です」
僕は少しの間、それを考えた。
見えないものが、人を病気にする。見えないものが、火で死ぬ。
魔法のない世界が持っている、まったく違う種類の「知ること」だった。
◇
その日の午後、僕はいつもより奥の森へ入った。
ミオに見せたい植物があった。
昨日、ふと目についた群生地がある。岩棚の下、日の当たらない湿った斜面に、見慣れない葉が広がっていた。灰緑色の、丸みを帯びた葉。茎の断面が三角形になっている。匂いを嗅ぐと、清涼感のある、鋭い香りがした。
「ティナ、これ見たことある?」
「ううん。なんか、いい匂いがするね」
「そう。でも、村ではほとんど生えてない。こんなに群生してるの、初めて見た」
「何に使えるの?」
「わからない。だから、ミオたちに聞いてみたい」
箱を取り出して、葉を一枚枠の前に近づけた。
「ミオ。これ、知ってる?」
ミオが枠の前に身を寄せた。しばらく、じっと見ている。それからクドウを呼んで、二人で何かを話し合った。フウタも覗き込んでくる。
少し待つと、ソラが口を開いた。
「ミオさんが言うには、これはこちらの世界の『ハッカ』に非常に近い植物の可能性があるとのことです」
「ハッカ?」
「はい。ノアの世界でどう呼ばれているかはわかりませんが——解熱、鎮痛、防虫など、様々な用途があります。特に、乾燥させて使うとより効果が高まります」
「乾燥させる?」
「葉を陰干しにして、水分を抜く。そうすると、長く保存もできます」
僕は葉をもう一度、手の中で確かめた。
清涼感のある香り。丸みのある形。群生地の広さ。
「どのくらい干せばいい?」
「三日から五日が目安です。直射日光は避けて、風通しのいい日陰で」
ティナが葉を一枚拾い上げて、くんくんと匂いを嗅いだ。
「これ、薬になるの?」
「なるかもしれない」
「なんか、すごくない? 今まで誰も気にしてなかった草が、実はすごいやつだったって」
「ミオたちの世界でも、同じものが——」
「あるんでしょ、きっと。そっちではちゃんと知られてて、こっちでは知られてない。なんか、面白いね」
◇
「ハッカに近い種か」
工藤が端末から顔を上げた。
「だとすれば、メントール系の成分を含んでいる可能性がある。解熱鎮痛だけじゃなく、抗菌作用も期待できる」
「向こうの世界では名前もついてないんですかね」
フウタが言った。
「ノアが知らないだけで、薬師とか詳しい人は知ってるかもしれない。ノアのおばあさんとか」
「可能性はある。ただ——」
工藤は少し間を置いた。
「あれだけの群生地が手つかずのままだとしたら、少なくともこの村では使われていない」
「もったいないですね」
「無知がもったいないとは言えない。知らなければ、使いようがない」
美緒が静かに言った。
「だからこそ、繋がることに意味がある」
工藤は何も言わなかった。でも、否定もしなかった。
◇
帰り際、ティナが群生地に戻って、葉をひとつかみ採ってきた。
「乾燥させてみよう。三日後に確かめる」
「どこに干すの?」
「家の裏、風通しいいから。お母さんには、森で見つけた薬草って言う。嘘じゃないし」
「それでいいのか?」
「いいよ。全部話せることと、話せないことがあるじゃない」
ティナは葉を布で包みながら、さらりと言った。
僕はそれを聞きながら、ハンナばあちゃんのことを考えた。
毎日森から帰るたびに、少しずつ、話せないことが増えている。箱のこと、ミオたちのこと、目に見えない生き物の話。全部、ばあちゃんには言えていない。
やましいことは何もない。でも——どう話せばいいか、わからない。
「ティナは、そういうの、気にならないの?」
「何が?」
「話せないこと。秘密、持つの」
ティナは少し考えてから、笑った。
「気にはなるよ。でも、守らなきゃいけない秘密と、ただ言えてない秘密は、違うと思う」
「どう違う?」
「守らなきゃいけない秘密は、誰かを守るためにある。言えてない秘密は——まだ言葉になってないだけ。そのうち言える日が来るよ」
そのうち、言える日が来る。
その言葉が、なんとなく、胸の中に落ちた。
◇
「ソラ、乾燥についてもう少し詳しく教えてほしい」
夜、ミオたちが離れてから、僕はソラに話しかけた。
「どういった点をお聞きになりたいですか?」
「乾燥させると、なぜ効果が高まるの?」
「植物の有効成分は、水分に薄められている場合があります。乾燥させることで成分が凝縮され、少量でも効果が出やすくなります。また、保存中に成分が変質しにくくなります」
「村の薬草も、乾燥させて使うものがある。でも、なんでそうするかは、あまり考えたことがなかった」
「経験として正しいことを知っていても、理由まで知ることは難しいですよね」
「ミオたちの世界では、理由から入るのか?」
「そうです。なぜそうなるのかを調べて、それをもとに使い方を考える。ノアの世界では、長い時間をかけた経験が積み上がっている。どちらにも、相手にはない強みがあります」
「……ソラ」
「はい」
「ミオたちがいなかったら、僕はこの草が何かも知らないまま、通り過ぎてた」
「そうかもしれません」
「でも——ミオたちも、この草がここに生えてることは、知らなかった」
「はい。ノアが見つけなければ、私たちには届かなかった」
僕は暗くなった森を眺めた。
どこかに、まだ名前も知らない草が生えている。誰にも気づかれないまま、静かに育っている草が。
「明日も、探しに行こう」
「おやすみなさい、ノア」
「おやすみ、ソラ」
箱を洞に戻して、立ち上がった。
足元の草が、夜風に揺れている。
見えないものが、世界を満たしている。目に見えない小さな生き物も、まだ名前のない植物の力も、言葉になっていない秘密も。
見えないからといって、ないわけじゃない。
そのことを——今日、僕はまた一つ、覚えた。




