第7話 水を沸かす理由
「ねえ、今日も行くの?」
朝、家を出ようとしたところで、ティナが路地の角から顔を出した。
籠をすでに背負っている。準備万端、という顔だった。
「……待ってたの?」
「うん。早起きしたから」
「何刻から?」
「さあ」
ティナはとぼけた顔で笑って、さっさと歩き出した。
「行こ行こ。ソラに昨日の続き聞きたいんだけど」
「昨日の続きって」
「星の話。あの世界の夜空、どんなか聞こうと思って」
僕は思わず苦笑いした。
昨夜、ソラと話した内容を、ティナにはまだ言っていない。なのに、同じことを考えていた。
「……僕も、聞こうと思ってた」
「でしょ。じゃあ一緒に聞こう」
ティナが振り返って、にっと笑った。
こういうところが、ティナという人間だ。怖がるより先に興味が勝つ。昨日、枠の中のソウタに笑い返したあの五秒と、まったく同じ顔をしている。
森への道が、心なしか、いつもより短く感じた。
◇
「おはようございます、ノア、ティナさん」
箱に触れると、すぐにソラの声が流れた。
「ソラおはよー! ねえ、昨日の夜さ——」
「ティナ、順番」
「え、いいじゃない」
「ミオたちに挨拶してから」
「……はーい」
ティナが渋々と枠に向き直った瞬間、颯太が画面に飛び込んできた。
「ティナ! おはよう! 昨日の炎、もう一回やって!」
「フウタさんおはよー! やるやる!」
「颯太、朝から全開すぎる」
ミオが額に手を当てながら、こちらに笑いかけた。
「ノア、おはよう。ティナも」
「オハヨウ、ミオ」
「オハヨウ!」
二人で声を揃えたら、枠の向こうで颯太がまた何かを叫んだ。クドウが「うるさい」と言いながら、口の端を上げている。
こういう朝が、だんだん当たり前になってきた。
「ソラ、聞いていい?」
しばらくして、ティナが枠に近づいた。
「もちろんです」
「あの世界の夜空って、どんな星が見える?」
「私は視覚を持たないので直接は見えませんが、観測データを参照できます。こちらの世界とは星座の配置が大きく異なることが、センサーの方位データから推測されています」
「違うんだ!」
「はい。同じ星が見えている可能性は低いと思います」
ティナが、僕を向いた。
「ノア、聞いた? 違う星だって」
「聞こえてた」
「すごくない? 同じ夜なのに、全然違う空を見てるんだよ」
「……そうだな」
「なんか、そっちのほうが不思議な感じがする。言葉とか植物とかは少し似てるのに、星は全然違うって」
ティナは腕を組んで、しばらく考える顔をした。
それから、急に表情が切り替わった。
「ま、いいか。じゃあフウタさん、炎見る?」
「見る見る見る!」
◇
その日の午前中は、いつもより賑やかだった。
ティナが魔法を見せるたびに颯太が騒いで、クドウが端末に記録して、ミオが身を乗り出す。ティナはそれが嬉しくて、どんどん調子が上がっていく。
「灯り系なら、色も変えられるんだよ」
そう言って、手のひらの炎を青白く変えた。
枠の向こうで、颯太が崩れ落ちた。
「なんでそんなに簡単に——」
「え、これ普通だよ? 村の子みんなできるよ?」
「俺の物理の教科書、全部ゴミだった……」
「フウタさん、大丈夫?」
ティナが心配そうに枠を覗き込んで、颯太が「大丈夫じゃないです」と答えた。
僕は少し離れたところに座って、その様子を見ていた。
枠の向こうが笑っている。こちらも笑っている。言葉が半分しか通じなくても、笑い声だけは、どこまでも届く。
こういう時間が、あるのだということを——森に来る前は、知らなかった。
◇
昼を過ぎたころ、僕は籠の中身を確かめた。
サルベ草、ツキシロ草、それから今日見つけた苦みのある根——ニガネ草。煮出して飲ませると、腹の調子を整える。
「ねえ、そのニガネ草、何に使うの?」
ティナが覗き込んできた。
「腹下しに効く。子どもに多い」
「あ、そういえば」
ティナが、ふと真顔になった。
「コラルのとこの末っ子、ここ三日ずっとお腹壊してるって聞いたよ。まだ四つだっけ」
「エーラのとこの?」
「そう。お母さん、かなり心配してた」
僕はニガネ草を手に取った。
腹下し。三日。四歳。
「水、だな」
「え?」
「腹を壊すのは、たいてい水が原因だ。井戸水をそのまま飲ませてないか?」
「さあ……どうかな」
ミオが枠の中から首を傾けた。何か聞き取れたらしい。
「ノア、なに? だれか——たいへん?」
「……子ども、おなかが、いたい。三日」
「何歳?」
「よっつ」
ミオが、クドウと何かを話し合った。それから、こちらに向き直った。
「ノア。みず——どうやって、のんでる?」
「井戸。村の」
「そのまま?」
「……たぶん」
「わかった。少し待って」
ミオが椅子を立ち、枠から外れた。颯太とクドウが端末の前で何かを調べ始めた。
ティナが僕の袖を引いた。
「なに調べてるの?」
「わからない。でも——何か、知ってるんだと思う」
◇
「ソラ、井戸水の汚染リスクと症状の関係、ざっくりまとめてくれ」
工藤が端末を叩きながら言った。
「はい。小児の感染性腸炎の原因として最も多いのは経口感染です。井戸水が生活排水や土壌と混じる場合、病原性大腸菌やカンピロバクターのリスクが高まります。三日以上続く下痢は、細菌性の可能性があります」
「つまり水を沸かせばいい?」
「煮沸で大部分の病原菌は死滅します。四歳児なら特に有効です」
美緒が戻ってきて、颯太の隣に座った。
「ノアの村、医療インフラがほぼない状態だよね。治癒魔法頼みで、それ以外の知識が入りにくい」
「衛生観念の問題か」
「そう。悪意じゃなくて——知らないだけ」
工藤は少しの間、黙っていた。
「伝えられるか? 水を沸かすということを」
「やってみる」
美緒はカメラに向き直った。
◇
「ノア。みず——にやす、わかる?」
「煮やす? 沸かす、ってこと?」
「そう。ひを——つかって、みずを、あつく」
「それが——エーラの子どもに関係あるの?」
「ある。みずの中に、小さな——めに、みえない——ものがいる。それが——おなかを、わるくする」
「目に見えないもの?」
「うん。でも、にやすと——しぬ。みずが、きれいになる」
僕は、しばらく考えた。
目に見えないもの。水の中にいる、目に見えない何か。それが腹を下させる原因で、煮沸すれば死ぬ。
「魔法じゃないの?」
「ちがう。ちしき。むこうのせかいの——ちがう、ちから」
違う力。
ミオが前に言っていた言葉が、ここに繋がった。
「わかった。やってみる」
「ノア」
ミオが、真剣な顔で言った。
「はやく。三日は、ながい」
◇
「ティナ」
「うん?」
「火、使える?」
「もちろん。何する?」
「エーラのとこに行く。水を沸かしたい」
ティナが、一秒だけ考えた。
「なんで沸かすの?」
「水の中に、目に見えない悪いものがいるんだって。沸かすと死ぬ」
「……ミオたちが言ったの?」
「うん」
ティナは僕の顔をじっと見た。
それから——籠を担ぎ直して、立ち上がった。
「行こう」
「信じるの?」
「ノアが信じてるんでしょ」
「……うん」
「じゃあいい。それに」
ティナが歩き出しながら、さらりと言った。
「あの人たち、嘘つく顔してないもん」
◇
エーラの家は、村の東の端にある。
扉を叩くと、疲れた顔のエーラが出てきた。三十手前くらいの、線の細い女性だ。抱いている末っ子のコラルが、ぐったりと肩に顔をうずめている。
「ノア? どうしたの」
「コラルの具合、悪いって聞いた。水、沸かして飲ませてる?」
「水を? そのまま飲ませてたけど……何か問題でも?」
「一度、沸かしてみてほしい。試してみるだけでいい」
エーラが、訝しそうな顔をした。当然だと思う。水を沸かして飲ませる、なんて話は村では聞いたことがない。
「それで治るの?」
「……保証はできない。でも、やってみる価値はある」
ティナが横から口を挟んだ。
「エーラさん、損はないじゃないですか。沸かすだけだし。ノアが言うなら、たぶん大丈夫ですよ」
エーラはしばらく僕とティナを交互に見た。
それから、扉を大きく開けた。
「……入って」
◇
竈に火を入れたのは、ティナだった。
魔法で、あっという間に。
エーラが目を丸くしたのは、火の起こし方が早すぎたからだと思う。でも、それより先に鍋の中の水が気になって、そちらに気を取られていた。
「どのくらい沸かせばいい?」
「ひとしきり、ぐらぐらするまで」
「わかった」
ティナが炎の加減を調整しながら、コラルに顔を向けた。
「コラルちゃん、大丈夫?」
コラルがぼんやりとした目でティナを見た。まだ幼い顔が、青ざめている。
「……おなか、いたい」
「もう少ししたら楽になるよ。たぶんね」
「ほんと?」
「うん。ノアがそう言ってるから」
コラルが、今度は僕を見た。
僕は何も言えなくて、ただ頷いた。
嘘をついてほしくなかった。でも——ティナの言い方は、嘘じゃない気がした。たぶん、という一語が、ちゃんとついている。
◇
「効いてるといいですね」
モニターの前で、颯太が静かに言った。
珍しく、声が落ち着いている。
「細菌性なら、煮沸だけで劇的に変わる場合もある。脱水が進んでいなければ、数日で回復するはずだ」
工藤が端末を閉じながら言った。
「でも確認できないな。こっちからは映像が届かない」
「ノアが報告してくれるんじゃないですか」
颯太が言った。
「そうだね」
美緒は、モニターをもう一度見た。
ノアとティナが、エーラの家の竈の前にいた。鍋から湯気が立ちのぼるのを、二人並んで見ている。
「ティナさんが来てから、ノアが変わりましたよね」
颯太がぽつりと言った。
「変わった?」
「なんか、明るいっていうか。動きが早いっていうか。今日だって、コラルちゃんのこと聞いた瞬間に動いたじゃないですか」
美緒は頷いた。
「前は、知識はあっても、踏み出すのをためらってた」
「それが今日は迷わなかった」
「ティナがいるから、かな」
「それだけじゃないと思いますけど」
颯太が笑った。
「俺たちのことも、あると思いますよ」
◇
帰り道、夕暮れの中をティナと並んで歩いた。
「ねえ、効くかな」
「わからない。でも——やれることはやった」
「そうだね」
ティナが空を見上げた。茜色が、西の空に広がっている。
「ノアってさ」
「うん」
「前から、ああいうこと、できたんじゃないの?」
「何が」
「エーラさんとこに行くやつ。水を沸かすとか、薬草持っていくとか」
「……知識はあった」
「じゃあなんで今まで行かなかったの?」
答えるのに、少し時間がかかった。
「言っても、どうせ笑われると思ってた」
ティナが、足を止めた。
「誰が笑うの」
「みんな。魔法も使えない出来損ないが、何を生意気に、って」
「笑わないよ、私は」
「……知ってる」
「ミオたちも笑わない」
「知ってる」
ティナが歩き出した。今度は、僕の少し前を。
「じゃあ、もういいじゃん」
「……そうかもしれない」
「そうだよ」
ティナが振り返らずに、言った。
「ノアの知識でコラルちゃんが元気になったら、それが全部の答えだよ」
僕は、ティナの後ろ姿を見ながら歩いた。
出来損ない。その言葉は、まだ消えていない。ダグの声も、村の視線も、変わっていない。
でも——今日、僕は動いた。
ミオが教えてくれた知識を、自分の足で持っていった。ティナが隣にいて、ソラが背中を押してくれた。
それだけのことが、こんなに違う。
村の灯りが、前に見えてきた。
明日、コラルの様子を確かめに行こう。
それだけを考えながら、僕は歩き続けた。




