第6話 秘密が、ふえた
気配に気づいたのは、ミオと植物の話をしているときだった。
風の向きが変わった。
木の葉の揺れ方が、違う。
誰か、来る。
「ノア! やっぱりここにいた!」
茂みをかき分けて出てきたのは——ティナだった。
籠を持って、頬を赤くして、息を切らしている。開口一番、言葉が続いた。
「もう、どこに行ったかと思って。お母さんに頼まれた薬草、ノアなら場所知ってるかと思って——」
そこで、ティナが止まった。
僕の手の中にある箱を見て。
枠の中から流れている声を聞いて。
「……それ、なに?」
僕は、箱を背中に隠そうとした。
間に合わなかった。
ティナはもう、三歩前に出ていた。目が、箱に張り付いている。
「人の声がした。なんか、動いてる。それ——」
「ティナ、待って」
「なんで隠すの。見せてよ」
「ちょっと待って、説明する、から——」
「今すぐ見せて!」
枠の中で、ソウタが何かを言った。
ティナが、その声の方向を向いた。
箱の枠を。
動く絵の中に映る、三人の顔を。
「……え」
息を、呑んだ。
◇
「工藤さん、新しい人が来ましたよ」
颯太が身を乗り出した。
モニターに映っているのは、ノアとは別の少年——いや、少女だった。茶色い髪、明るい目。驚きで固まったまま、カメラの前で微動だにしていない。
「知り合いか」
「たぶん。さっきから二人でなんか言い合ってる」
美緒はカメラに向かって、ゆっくりと手を振った。
「こんにちは」
少女が、ぴくりと動いた。
ノアが、少女に向かって何かを言っている。説明しているのか、それとも謝っているのか——表情からは、両方読み取れた。
「ソラ、ノアの言葉、拾えてる?」
「断片的に。『秘密』に当たる語と、『大丈夫』に当たる語が聞こえています」
「秘密、か」
美緒は静かに言った。
「ノアにとって、私たちとのことは秘密だったんだね。誰にも言えなかった」
「当然でしょう。あの子だって、これをどう説明すればいいかわからない」
工藤が腕を組んだ。
「問題は——その子が信頼できるかどうかだ」
◇
「ノア。あれ——人?」
「人だよ」
「どこの人?」
「……遠い場所の、人」
「どのくらい遠い?」
「すごく」
ティナは箱から目を離さなかった。枠の中の三人が、こちらをじっと見ている。一人は笑顔で手を振っている。一人は真剣な顔で何かを見ている。もう一人は腕を組んで、こちらを観察するような目をしていた。
「しゃべれる? あの人たちと」
「少し。言葉が違うから、全部は通じない」
「魔法?」
「……魔法じゃない」
ティナがようやく僕を向いた。
「じゃあ、なに?」
答えられなかった。
正直に言えば——僕にも、よくわかっていない。あの箱が何で、どういう理屈で声が届いて、物が行き来するのか。ミオたちが「けんきゅう」と呼んでいる何かが関係しているらしいことはわかった。でも、その「けんきゅう」が何なのかも、まだ半分しかわかっていない。
「怖くない人たちなの?」
ティナの声が、少しだけ低くなった。
「うん。怖くない」
「ノアが、そう言うなら」
ティナは一度だけ深呼吸して、箱の前に膝をついた。
そして、枠の中のミオに向かって——満面の笑顔で、手を振った。
◇
「わっ、笑った!」
颯太が声をあげた。
茶色い髪の少女が、はっきりとした笑顔で手を振っている。ノアとは正反対の反応だ。ノアは最初、三日かけてようやく表情がほぐれてきた。この子は——五秒だった。
「元気な子だね」
美緒は思わず笑い返した。
「ソラ、名前聞けそう?」
「試してみます」
ソラが、ゆっくりとした発音で言葉を送り出した。少女がノアに何かを確認して、それから胸を指さした。
「ティナ」
はっきりとした声だった。
「ティナ! よろしく!」
颯太がカメラに向かって叫んだ。美緒に頭を叩かれながら。
ティナが、びっくりした顔で目を丸くした。それから——声を出して笑った。
笑い声は、こちらまで届いた。
「いい子じゃないですか」
颯太がこめかみを押さえながら言った。
「どんな子か、もう少し見てみよう」
工藤が、端末の画面から目を上げた。
◇
ティナは、怖がらなかった。
箱の前に座って、枠の中の人たちのことをじっと観察して、ときどき僕に「あの人は?」「さっきの声は?」と聞いてくる。僕が答えるたびに、ティナは「へえ」とか「ふうん」とか言いながら、また枠を見る。
「ねえ、魔法がないって、本当?」
ティナが言った。
「うん。ミオたちの世界には、魔法がない」
「じゃあ、灯りは? 水は? 全部手でやるの?」
「……違う何か、がある。僕にはよくわからないけど」
ティナは腕を組んだ。
「見せてあげたら? 魔法」
「え」
「あの人たち、魔法のない世界の人なんでしょ。だったら、見たことないんじゃないの」
僕は枠の中のミオを見た。
ミオが、首を傾けた。何か気になることがあるときの顔だ。
「ティナが、なに、か——いってる?」
ソラが翻訳した言葉は、ぎこちなかった。でも、意味は通じた。
「ティナが——まほう、見せる、って」
枠の中が、一瞬、静かになった。
◇
「魔法」
工藤が、端末から顔を上げた。
「今、魔法って言ったか?」
「言いましたね」
颯太の声が、上ずっていた。
「ソラ、聞いてた?」
「はい。ノアが『ティナがマホウを見せると言っている』と言いました」
「……本当に、あるのか」
工藤が、静かに言った。
「今まではノアの言葉から推測していただけだ。でも——実際に見たら」
美緒は口を開く前に、息を吸った。
「もし本当に魔法が存在するなら——物理法則の根本から考え直すことになる」
「そういうことだ」
誰も、何も言わなかった。
研究室に、張り詰めた静けさが落ちた。
カメラの前で、ティナが立ち上がった。
◇
ティナは、右手を前に出した。
指先を、軽く開いて。
目を閉じて——三秒。
手のひらの上に、小さな炎が生まれた。
揺れる、オレンジ色の炎。木も油もない、空気の上に——ただそこに、存在している。
「これくらいしかできないけど」
ティナが照れくさそうに言った。
「一番最初に習う、灯りの魔法の応用。うちのお母さんも言うんだけど、私、灯り系は得意で火は下手で——」
枠の中から、声が聞こえた。
叫び声、だった。
◇
「うわああああ!」
颯太が椅子から立ち上がった。文字通り、飛び上がった。
「あった! 本物だ! 魔法だ!!」
「颯太、落ち着け!」
「落ち着けるわけないじゃないですか工藤さん! 炎が! 何もないところから! 燃料なしで! 熱源なしで!」
「わかってる、俺も見てる、落ち着け!」
工藤の声も、いつもより半音高かった。
美緒は、画面から目が離せなかった。
ティナの手のひらの上で、小さな炎が揺れている。風もないのに揺れている。オレンジと、わずかに青みがかった混合色。ゆらゆらと、穏やかに。
「ソラ」
美緒はかろうじて声を出した。
「温度センサー、反応してる?」
「はい。カメラのサーモグラフィモジュールに反応があります。実際に熱を持った炎です。周囲への輻射熱も確認できます。——これは」
ソラが、珍しく、一拍間を置いた。
「現実の炎です」
「異世界だ」
工藤が、低く言った。
「転移先は——地球じゃない。異なる物理法則が存在する、別の世界だ」
静寂が、一秒だけあった。
「異世界確定!!!」
颯太の声が、研究室に響き渡った。
◇
枠の中が、大変なことになっていた。
ソウタが叫びながら跳び回っていて、クドウが何かを端末に打ち込みながら立ち上がっていて、ミオが口に手を当てたまま固まっていて——その奥で、目の周りに何かを付けた老人が、静かに、でも確かに笑っていた。
「なに、あれ」
ティナが、呆気にとられた顔で言った。
「わからない」
「ノアのせい?」
「……たぶん、魔法を見たから」
「え、魔法ってそんなにすごいの? 私のって一番基本的なやつなんだけど」
「あっちの世界には——ないから」
ティナが、口を丸くした。
「ないの? 全然?」
「全然」
「じゃあ——水とか、どうするの? 灯りは? 火は?」
「……全部、別の何かでやってる」
ティナはしばらく黙ってから、また枠を見た。
ミオが、こちらに気づいてカメラに向き直った。頬が赤い。目が、いつもより輝いている。
「ティナ。もう——いちど、できる?」
「え、うん。できるけど」
「みせて。おねがい」
ティナが、もう一度手のひらを開いた。
炎が、生まれた。
枠の奥で、またソウタが叫んだ。
ティナが、こらえきれずに笑い出した。
僕も——気づいたら、笑っていた。
◇
「ソラ、記録は」
「全部取れています。映像、熱分布、時系列のデータ全て」
工藤は端末の前に座って、すでに分析を始めていた。
「エネルギー保存則に明らかに反する。熱量の発生源が、検出できない」
「つまり?」
「私たちの知っている物理とは——根本的に別のルールが、あの世界には存在する」
美緒は静かに頷いた。
頭の中が、高速で動いていた。
転移が成功した。異なる物理法則を持つ世界が存在する。そこに、言葉を持ち、知識を持ち、植物を愛する少年がいる。魔法のある世界で、魔法を持たないその少年が——こちらと繋がった。
「なぜ、ノアのところに転移したんだろう」
美緒が呟くと、工藤が手を止めた。
「それは——まだわからない」
「でも、偶然じゃない気がする」
「根拠は?」
「ない。でも」
美緒はモニターを見た。
ノアとティナが、並んで枠の前に座っている。二人で、こちらに手を振っている。
「なんとなく」
◇
帰り道、ティナはずっと黙っていた。
珍しかった。ティナが黙っていることなんて、滅多にない。
村の入り口が見えてきたところで、ティナが口を開いた。
「ノア」
「うん」
「あの人たちのこと——誰かに言ったら、ダメ?」
「言わないほうがいい。たぶん」
「……なんで?」
僕は少し考えた。
「わからない。でも——言ったら、何かが変わる気がする。よくない方向に」
ティナは足を止めた。
「よくない方向って?」
「箱を取り上げられるかもしれない。あの人たちに、会えなくなるかもしれない」
ティナが、しばらく僕を見た。
それから——深く頷いた。
「わかった。誰にも言わない」
「ティナ——」
「その代わり」
ティナが、まっすぐ僕の目を見た。
「私も、仲間に入れて」
「……」
「ダメ?」
答える前に、枠の中でのミオの顔が浮かんだ。
「ノアも——なかま。いい?」と言ってくれた、あの顔。
「ダメじゃない」
言ったら、ティナが笑った。
今日一番の、大きな笑顔だった。
◇
夜、ソラと少し話した。
ミオたちが眠った後、枠の中に人はいなくなったけれど、声だけは残っていた。
「ソラ」
「はい、ノア」
「今日、みんな、なんで——そんなに、おどろいた?」
「魔法を見たからです」
「まほうは——そんなに、めずらしい?」
「私たちの世界には、存在しないものです。エネルギーが、説明のつかない形で現れた——それは、私たちの知っている世界の法則を超えています」
「……法則?」
「世界のルール、とでも言えばいいでしょうか。水は低いところへ流れる。火は燃料がなければ消える。私たちの世界では、そのルールが絶対です。でも——今日のティナさんの炎は、そのルールを超えていました」
僕は、しばらくそれを考えた。
「こっちでは——あたりまえのこと」
「知っています。でも、あたりまえのことが——別の場所では奇跡になることがある」
「……」
「ノアの植物の知識も、同じです」
僕は、暗くなった森を見た。
境の樹が、夜風に揺れている。
「ソラ」
「はい」
「明日も——みんな、いる?」
「います。みなさん、明日が待ちきれないと思います。特に颯太さんは」
「そっか」
「おやすみなさい、ノア」
「おやすみ、ソラ」
箱を洞に戻して、僕は立ち上がった。
空に、星が出ていた。
あちらの世界の夜空にも、同じ星が出ているのだろうか。
それとも——全然違う星が、あるのだろうか。
今度、聞いてみよう。




