第5話 はじめての贈り物
その日の朝、ハンナばあちゃんは指が痛いと言った。
「雨が来るんだろうね。こういうときは決まって当たるんだよ」
笑いながら言うけれど、関節の腫れが昨日より大きい気がした。
「サルベ草、すり鉢で一緒に——」
「いいよ、ノア。自分でできる。お前は森に行っておいで」
追い払うように手を振られた。でも、その手の動きが、いつもより小さかった。
僕は籠を背負いながら、昨日ミオに話したことを思い出していた。
サルベ草は痛みを和らげる。岩陰に生える。根を残して採る。
あの人たちは、夢中で聞いてくれた。
だとしたら——実物を、見せたらどうだろう。
◇
「おはようございます、ノア」
ソラの声が、枠の奥から聞こえた。
昨日より、発音がなめらかだった。ミオたちの言葉を話しているのに、どこか違う響きがある。人の声に似ているけれど、少し違う——そういう声だ。
「おはよう、ソラ」
返すと、枠の中でソウタが身を乗り出した。
「ノア、ソラと話せるじゃん! やば——」
「ソウタ、朝から声が大きい」
ミオが窘めながら、こちらに向き直った。
「ノア、今日は——はこ、の——よこの、すきま。使っていい?」
「すきま」
僕は箱の側面に目を向けた。あの細長い開口部。ソウタが勝手に黒い棒を出してきた、あの隙間。
「なに、入れる?」
「おくりもの。ノアに」
贈り物。
「……わかった」
◇
「ソラ、誤差はどのくらい?」
工藤が転送モジュールの制御端末を確認しながら言った。
「座標の固定精度は昨日から変わっていません。小型物体なら問題ないかと」
「よし」
美緒はテーブルの上に並べたものを見た。
植物図鑑——子ども向けの、絵の大きいもの。それから、小さなスケッチブック。それから、色鉛筆を数本。
「図鑑は大きすぎないか」
工藤が眉を寄せた。
「転送窓の口径は縦七センチ、横十二センチだぞ」
「じゃあ、薄いやつで」
美緒は図鑑を一冊選んで、ページを開いてみた。写真ではなく、細密な植物画が並んでいる。葉脈まで丁寧に描かれた、大判の絵。
「これなら伝わると思う」
颯太が頷いた。
「言葉が通じなくても、絵ならわかる。ノアが植物に詳しいなら、同じものが描いてあったら気づくんじゃないですか」
「問題は——この世界の植物が、向こうにも同じように存在するかどうかだ」
工藤が腕を組んだ。
「転移した先が、地理的に地球上のどこかなら——気候が近ければ同種か近縁種がいる可能性がある。だが——」
「だとしたら、それだけでも大発見ですよ」
颯太の声が、少し上ずっていた。
美緒は図鑑を折り曲げながら、転送窓の口に合わせてみた。ぎりぎり、入る。
「送ってみよう」
◇
隙間の奥で、かすかな音がした。
何かが、入ってくる気配。
僕はしゃがんで、隙間に指先を近づけた。奥から、薄くて固い何かが、ゆっくりと押し出されてくる。
引き出すと——それは、白くて薄い、束のようなものだった。
村の写本より、ずっとなめらかで、ずっと薄い。表面に絵が並んでいる。
絵が、見えた瞬間、息が止まった。
植物だった。
葉の形。茎の断面。根の広がり方。どの絵も、見たことがないほど細かく、丁寧に描かれている。葉脈の一本一本まで。
ページをめくる手が、震えていた。
「これ——」
枠の中のミオが、僕の顔をじっと見ていた。
「知ってる、の、ある?」
ページをめくりながら、目が動かせなかった。
三ページ目で——見つけた。
銀色の葉。岩陰に生えている絵。葉脈の向きまで、正確だった。
「ツキシロ草!」
思わず立ち上がって、束を箱の前に持っていった。
「これ、ツキシロ草! ばあちゃんの——きず、に使う!」
枠の中で、三人が顔を見合わせた。
それから、ソウタが飛び上がった。
◇
「一致した! 工藤さん、一致しましたよ!」
颯太が画面を指さした。
「落ち着け。確認する」
工藤が端末に向かって素早く何かを打ち込んだ。
「……ノアが言ったツキシロ草の特性——化膿した傷の排膿に使う、葉を三枚まで、根を残す——これとこの植物の既知の薬効成分が一部重なる可能性がある」
「向こうにも同じ植物がある、ってことですか」
「同種か、非常に近い種だろう。だとすれば——」
工藤は眼鏡の奥の目で、モニターを見た。ノアがまだ興奮した様子でページをめくっている。
「あの子の知識は、植物学的に裏付けのある知識だ。経験則だけじゃない」
美緒は静かに頷いた。
「ノアが十三年かけて森で積んできたものだから」
◇
何ページも、めくった。
知っているものが、いくつも出てきた。
ノイバの実——熟す前に食べると腹を下す、あの赤い実。ハゼ蔓——触ると肌がかぶれる、葉のつけ根だけ安全な、あの蔓。母さんが最初に教えてくれた植物のひとつだ。
全部が一致するわけじゃなかった。見たことがない形のものも多い。でも——知っているものが、あちらの世界にも存在する。
「ミオたちのせかい——と、僕の——せかい——おなじ、しょくぶつ、ある」
「そう。すこし、ちがうけど——おなじ、かもしれない」
ミオが頷いた。その目が、静かに輝いていた。
「ノア——おくりたい、もの、ある?」
「おくりたい?」
「すきまで——おくれる。むこうからも」
僕は少し考えて、籠の中を見た。
今日採ってきたサルベ草が、数本入っている。根がついたまま、土ごと包んである。ばあちゃんへの分は、もう分けてある。残りは——
「……これ、送る」
サルベ草を一本、取り出した。
「ばあちゃんの——てが、いたい——に、使う。いっしょに——しらべて、ほしい」
ミオが、静かな顔で受け取った。
いや、受け取ったわけじゃない。でも——受け取ってくれた、という感じがした。
◇
転送窓から出てきたのは、細い草の束だった。
根がついたまま、湿った土にくるまれている。葉は銀がかった灰色で、茎に細かい毛がある。
「サルベ草……」
美緒は、そっと手に取った。
どこかの森で、今朝、この子が採ってきたもの。おばあさんの痛む手のために。
「分析にかけます」
工藤が手袋をはめて、サンプルを受け取った。その手つきが、いつもより、丁寧だった。
「ノア」
美緒はカメラに向き直った。
「ありがとう。たいせつに——しらべる」
ノアが、小さく頷いた。
表情は変わっていない。でも——目の奥が、少し、やわらかくなった気がした。
「ばあちゃん——だいじょうぶ?」
「……まだ、いたそう。でも、わらう」
「そう」
美緒は、それ以上何も言わなかった。
言葉が足りないのは、翻訳のせいだけじゃない気がした。この沈黙の中に、ちゃんと何かが通じている。
◇
帰る前に、もう一度だけ束を開いた。
さっきは興奮して飛ばしてしまったページを、今度はゆっくりめくる。
知らない植物が、たくさんあった。
名前も、性質も、何もかもわからない。でも——絵を見れば、どんな場所に生えるか、だいたい想像がつく。葉の厚さ。茎の形。根の広がり方。長年森を歩いてきた目が、自然と読んでいる。
「ノア」
ミオが呼んだ。
「そのほん——もっていていい。ノアの」
「……いい?」
「うん。ノアに、あげる」
僕は束を胸に抱えた。
こんなに丁寧な絵が並んだものを、もらったことがなかった。村の写本は貴重品で、薬師のハンナばあちゃんでさえ、数えるほどしか持っていない。
「ありがとう、ミオ」
「どういたしまして」
ミオが笑った。
颯太がまた何かを叫んで、クドウに頭を叩かれている。その奥で、目の周りに何かを付けた老人が、静かにこちらを見ていた。
老人と目が合った。
老人は、ゆっくりと頷いた。
なんと呼ばれているのか、まだ知らない。でも——この人が、みんなの中心にいる人なのだろうと、なんとなくわかった。
◇
夕方、ハンナばあちゃんにサルベ草を渡しながら、僕は束のことを考えていた。
あれをどこに隠すか。誰かに見られたら、どこで手に入れたか聞かれる。この村で見たことがないものだから。
でも——隠すのが、少し惜しかった。
ページをめくるたびに、知らない植物が並んでいる。あちらの世界には、僕がまだ名前を知らない草が、どれほどあるのだろう。
「ノア? どうかしたかい」
ばあちゃんが顔を覗き込んできた。
「なんでもない」
「変な顔してたよ。楽しいことでも考えてたのかい」
「……どうかな」
「まあいい」
ばあちゃんは笑って、サルベ草を受け取った。
指の節が、今日は少し、やわらかく見えた。気のせいかもしれない。でも——そう見えた。
「ありがとうよ、ノア。お前は本当に、よく気がつく子だね」
「ばあちゃんが、教えてくれたから」
「お母さんもね」
「うん」
台所の窓の外で、夕風が草を揺らしていた。
明日も、森に行こう。
束に描かれていた、見たことのない植物のことを——ミオに聞いてみよう。あちらの世界では、どんな場所に生えているのか。どんな性質があるのか。
知りたいことが、また増えた。
それは、悪くない感じだった。
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ノアにとって、あの植物図鑑は生まれて初めてもらった贈り物でした。隙間から差し出された薄い束を、胸に抱えて震えていたあの子に。
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