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第4話 研究室のみんな

森に入るとき、足が少し速くなっていることに気づいた。




昨日より、一刻は早く家を出た。ハンナばあちゃんには「サルベ草を確かめに行く」と言った。嘘ではない。ただ、それだけじゃなかった。




境の樹の根元にたどり着くと、洞の中へ手を伸ばす。箱は昨日と同じように、ひんやりと冷たかった。


表面に手のひらをあてる。


光が、走った。




「ノア!」




枠の中で、ソウタが手を振った。大きく、何度も。




「おはよ! ……え、なんだっけ、あの言葉。ソラ、ソラ」


「『アサ』です。おはよう、は『オハヨウ』」




穏やかな声が、枠の奥から聞こえた。


昨日はいなかった——いや、いたのかもしれないけれど、気づかなかった存在だ。声だけで、姿が見えない。でも確かにそこにいる、誰か。




「ソウタ、うるさい。ノア、おはよう」




ミオが苦笑いしながら、僕に手を振った。




「……オハヨウ」




言ってみると、枠の中が一瞬静かになってから、ソウタが大声をあげた。ミオも、目を細めて笑っている。


こういう朝の挨拶があるのだと、昨日覚えた。







翻訳の精度が上がってきたのは、その日の朝のことだった。




「ソラ、どのくらいいける?」




美緒が端末の前に座りながら聞くと、ソラはわずかに間を置いて答えた。




「簡単な名詞と動詞なら、双方向で七割程度の精度で対応できます。ただし、複雑な概念や抽象的な表現はまだ難しい」


「じゃあ、今日は少し踏み込んでみよう」




工藤がコーヒーカップを置いて、モニターの前に椅子を引き寄せた。




「自己紹介からだな。こちらが何者かを伝える。向こうも同じだ」


「急ぎすぎじゃないですか」


「急ぎすぎて何が悪い。三日も経ってる」




美緒は苦笑いして、カメラに向き直った。


ノアが箱を両手で持って、じっとこちらを見ている。その目には、昨日よりはっきりと——期待の色があった。







ミオが、ゆっくりと口を開いた。


「ノア。わたしたちは——けんきゅうしつ、の——なかま」




聞き慣れない言葉が、でも、なんとなく区切って伝えようとしているのはわかった。




「けんきゅうしつ?」




繰り返すと、ミオが頷いた。それから、枠の中の人たちを順番に指さした。自分、クドウ、ソウタ、そして声だけの誰か。




「ここに、いる。みんな、なかま」




仲間。


その言葉は、わかった。村でも使う。




「ノアは——ひとり?」


「……ひとり」




答えてから、なんとなく、胸の奥がちくりとした。


ミオが、小さく眉を寄せた。何かを考えるような顔をして、それからまた、穏やかな表情に戻った。




「ノアも——なかま。いい?」


「……」




僕は、しばらく黙っていた。


仲間、と言われたことが、すぐには飲み込めなかった。村では、僕を仲間と呼ぶ者はいない。輪に入れてもらえない。一人前じゃないから。魔法が使えないから。




「……いい」




小さく、言った。


枠の中で、ソウタがまた大声をあげた。







「よし、次だ」




工藤が端末を操作しながら、画面を見た。




「向こうの世界のことを聞く。ソラ、『あなたたちの世界には何がある』を翻訳してくれ」


「難しい質問です。もう少し具体的にしたほうが伝わりやすいかと」


「じゃあ——魔法、でいいか」




美緒が言った。




「昨日、ノアが何かを呟いたときに、ソラが『マホウ』に近い音を拾っていた。そこから入ってみよう」




ソラが翻訳した言葉を、美緒はゆっくりとノアに向けて言った。


「ノアの——せかいに——マホウ、ある?」







「まほう」




その言葉が出た瞬間、僕は思わず箱を握り直した。


ミオが、僕の世界のことを知っている。いや、そうじゃない——聞いている。知りたがっている。




「ある」




答えてから、どう説明すればいいか、迷った。


見せるしかない。




僕は周りを見回して、枯れ枝を一本拾い上げた。それを枠の前に持っていき、炎が出る仕草——指を鳴らして、手のひらの上で何かが踊るように見せた。




「ひ」




ミオが、目を丸くした。




「まほうで——ひ?」


「そう。水も。光も」




片言になりながら、でも、言葉が少しずつ通じていく感覚があった。




「みんな、使える?」


「……みんな、使える。僕、使えない」




言ってしまってから、しまった、と思った。


でも、ミオは笑わなかった。クドウも、ソウタも、笑わなかった。


ミオが、静かに聞いた。




「——つかえない、から、ひとり?」


「……」




答えられなかった。


でも、黙っていることが、答えだった。


ミオは少しの間、何も言わなかった。それから、まっすぐに僕を見て、言った。




「ノア。わたしたちの——せかいに——まほう、ない」


「……ない?」


「ない。でも——しきる、こと、ある。ちがう、ちから」




違う、力。




「……ちがう、ちから?」




ミオが頷いて、枠の奥に向かって何か言った。するとクドウが、何か小さなものを持ってきた。


薄くて白いものだった。紙のような、でも村の紙より何倍もなめらかな、薄いもの。そこに、細かい絵と記号が並んでいる。




「これ——しょくぶつ、の——しらべ、かた」




植物の、調べ方。


息が、止まりそうになった。







「効いてる」




颯太が小声で言った。


美緒も感じていた。ノアの目が、変わった。


さっきまでの、慎重に言葉を選ぶ目ではない。何かが火花を散らしたような、あの目。植物の話になると、ノアは別人になる。昨日もそうだった。




「ノア」




美緒は、ノアが手に提げていた籠に目を向けた。朝から森に入っていたのなら、何か採ってきているはずだ。




「その——かご、の——なか、みせて?」




ノアが、少し躊躇してから、籠を箱の前に持ってきた。


葉が数枚。小さな実が一房。それから、灰色がかった細い根のようなもの。




「それ——なに?」




美緒が指さしたのは、銀色に光る葉だった。


ノアが、目を細めた。




「ツキシロ草」


「……どんな——はたらき、ある?」




その瞬間、ノアの表情が、ふっと変わった。




緊張が、解けた。


そういう顔だった。







誰かに、聞かれたことがあっただろうか。


この草が何で、どんな性質があって、どう使うのか——村で、誰かに真剣に聞かれたことが。




ダグは笑う。村の大人たちは「薬師の真似事」と言う。ハンナばあちゃんだけが、聞いてくれた。でもばあちゃんは教える側で、僕は教わる側だった。




ミオは、知りたがっている。


本当に、知りたいという顔で——僕を見ている。




「ツキシロ草は——きず、の——うみ、出す」




ミオが身を乗り出した。




「ほかは?」


「三まい——だけ。ね、残す。来年——また、生える」


「根を残す? なぜ?」


「全部——取る——と、なくなる」




クドウが、端末に何かを打ち込み始めた。ソウタが前のめりになっている。




「あの根——灰色の——なに?」


「サルベ草。ばあちゃんの、て、いたい——楽に、なる」


「痛みを和らげる? どうやって使う?」


「すりつぶして——塗る」


「どこに生えてる?」


「岩かげ。日、当たらない——ところ」




質問が、止まらなかった。


僕も、止まらなかった。




村では誰も値打ちを認めてくれなかった、母さんとハンナばあちゃんから受け継いだ知識を——僕は、ただ話し続けた。言葉が足りなくて、身振りを交えながら。それでも三人は、夢中で聞いていた。




「すごい」




ミオが言った。


翻訳じゃなく、そのままの言葉で。




「ノアの——しきる、こと——すごい。ほんとうに」


「……」




なんと返せばいいか、わからなかった。


胸の奥で、何かが、じわりと溶けていく気がした。







「工藤さん、記録全部取れてますか」




颯太が振り返った。




「当たり前だ」




工藤は端末を叩きながら、モニターから目を離さなかった。その横顔が、普段と違う。口数が少ないのはいつも通りだが、目の奥に、確かに何かが灯っている。




「ソラ、今の植物名の発音、全部ログしておいてくれ。あとで学名との照合を試みる」


「はい。ツキシロ草、サルベ草、ほか三種類。記録しました」


「あの子が言う性質が正しければ——」




工藤は少し間を置いた。




「未知の薬効成分が含まれている可能性がある」




美緒は頷いた。




「それよりも」




颯太が言った。




「あの子、楽しそうじゃないですか。さっきより、全然」




美緒はモニターを見た。


ノアが、銀色の葉を持ち上げて、光の具合を確かめながら何かを説明している。夢中になっているのが、画面越しでもわかった。




「そうだね」




美緒は、静かに言った。







帰り道、僕は自分の足元を見ていた。


なんとなく、歩き方が違う気がした。


背中が、いつもより、伸びている。


村に戻れば、また出来損ないだ。ダグに笑われて、輪に入れてもらえなくて、何も変わっていない。それはわかっている。




でも——今日だけは。




あの三人が、夢中で聞いてくれた。ツキシロ草のことを。サルベ草のことを。誰も見向きもしなかった、この知識を。




「すごい」


ミオの声が、まだ耳に残っている。




翻訳じゃなく、そのまま出てきた言葉。


僕は、空を見上げた。夕暮れが近い。茜色が、木々の梢の向こうに広がっている。


ハンナばあちゃんが、よく言っていた。




「ノアの目は、お父さんに似て、いい目をしているね」




いい目。




今日、ミオが「すごい」と言ってくれたのは——この目のことだ。




森の植物を見分ける目。葉脈の向きを読む目。根の色で土の湿りを知る目。


魔法じゃない。でも、確かに、僕の持っているもの。




村の入り口が見えてきた。足取りは、来た時よりも、少しだけ、軽かった。

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