第4話 研究室のみんな
森に入るとき、足が少し速くなっていることに気づいた。
昨日より、一刻は早く家を出た。ハンナばあちゃんには「サルベ草を確かめに行く」と言った。嘘ではない。ただ、それだけじゃなかった。
境の樹の根元にたどり着くと、洞の中へ手を伸ばす。箱は昨日と同じように、ひんやりと冷たかった。
表面に手のひらをあてる。
光が、走った。
「ノア!」
枠の中で、ソウタが手を振った。大きく、何度も。
「おはよ! ……え、なんだっけ、あの言葉。ソラ、ソラ」
「『アサ』です。おはよう、は『オハヨウ』」
穏やかな声が、枠の奥から聞こえた。
昨日はいなかった——いや、いたのかもしれないけれど、気づかなかった存在だ。声だけで、姿が見えない。でも確かにそこにいる、誰か。
「ソウタ、うるさい。ノア、おはよう」
ミオが苦笑いしながら、僕に手を振った。
「……オハヨウ」
言ってみると、枠の中が一瞬静かになってから、ソウタが大声をあげた。ミオも、目を細めて笑っている。
こういう朝の挨拶があるのだと、昨日覚えた。
◇
翻訳の精度が上がってきたのは、その日の朝のことだった。
「ソラ、どのくらいいける?」
美緒が端末の前に座りながら聞くと、ソラはわずかに間を置いて答えた。
「簡単な名詞と動詞なら、双方向で七割程度の精度で対応できます。ただし、複雑な概念や抽象的な表現はまだ難しい」
「じゃあ、今日は少し踏み込んでみよう」
工藤がコーヒーカップを置いて、モニターの前に椅子を引き寄せた。
「自己紹介からだな。こちらが何者かを伝える。向こうも同じだ」
「急ぎすぎじゃないですか」
「急ぎすぎて何が悪い。三日も経ってる」
美緒は苦笑いして、カメラに向き直った。
ノアが箱を両手で持って、じっとこちらを見ている。その目には、昨日よりはっきりと——期待の色があった。
◇
ミオが、ゆっくりと口を開いた。
「ノア。わたしたちは——けんきゅうしつ、の——なかま」
聞き慣れない言葉が、でも、なんとなく区切って伝えようとしているのはわかった。
「けんきゅうしつ?」
繰り返すと、ミオが頷いた。それから、枠の中の人たちを順番に指さした。自分、クドウ、ソウタ、そして声だけの誰か。
「ここに、いる。みんな、なかま」
仲間。
その言葉は、わかった。村でも使う。
「ノアは——ひとり?」
「……ひとり」
答えてから、なんとなく、胸の奥がちくりとした。
ミオが、小さく眉を寄せた。何かを考えるような顔をして、それからまた、穏やかな表情に戻った。
「ノアも——なかま。いい?」
「……」
僕は、しばらく黙っていた。
仲間、と言われたことが、すぐには飲み込めなかった。村では、僕を仲間と呼ぶ者はいない。輪に入れてもらえない。一人前じゃないから。魔法が使えないから。
「……いい」
小さく、言った。
枠の中で、ソウタがまた大声をあげた。
◇
「よし、次だ」
工藤が端末を操作しながら、画面を見た。
「向こうの世界のことを聞く。ソラ、『あなたたちの世界には何がある』を翻訳してくれ」
「難しい質問です。もう少し具体的にしたほうが伝わりやすいかと」
「じゃあ——魔法、でいいか」
美緒が言った。
「昨日、ノアが何かを呟いたときに、ソラが『マホウ』に近い音を拾っていた。そこから入ってみよう」
ソラが翻訳した言葉を、美緒はゆっくりとノアに向けて言った。
「ノアの——せかいに——マホウ、ある?」
◇
「まほう」
その言葉が出た瞬間、僕は思わず箱を握り直した。
ミオが、僕の世界のことを知っている。いや、そうじゃない——聞いている。知りたがっている。
「ある」
答えてから、どう説明すればいいか、迷った。
見せるしかない。
僕は周りを見回して、枯れ枝を一本拾い上げた。それを枠の前に持っていき、炎が出る仕草——指を鳴らして、手のひらの上で何かが踊るように見せた。
「ひ」
ミオが、目を丸くした。
「まほうで——ひ?」
「そう。水も。光も」
片言になりながら、でも、言葉が少しずつ通じていく感覚があった。
「みんな、使える?」
「……みんな、使える。僕、使えない」
言ってしまってから、しまった、と思った。
でも、ミオは笑わなかった。クドウも、ソウタも、笑わなかった。
ミオが、静かに聞いた。
「——つかえない、から、ひとり?」
「……」
答えられなかった。
でも、黙っていることが、答えだった。
ミオは少しの間、何も言わなかった。それから、まっすぐに僕を見て、言った。
「ノア。わたしたちの——せかいに——まほう、ない」
「……ない?」
「ない。でも——しきる、こと、ある。ちがう、ちから」
違う、力。
「……ちがう、ちから?」
ミオが頷いて、枠の奥に向かって何か言った。するとクドウが、何か小さなものを持ってきた。
薄くて白いものだった。紙のような、でも村の紙より何倍もなめらかな、薄いもの。そこに、細かい絵と記号が並んでいる。
「これ——しょくぶつ、の——しらべ、かた」
植物の、調べ方。
息が、止まりそうになった。
◇
「効いてる」
颯太が小声で言った。
美緒も感じていた。ノアの目が、変わった。
さっきまでの、慎重に言葉を選ぶ目ではない。何かが火花を散らしたような、あの目。植物の話になると、ノアは別人になる。昨日もそうだった。
「ノア」
美緒は、ノアが手に提げていた籠に目を向けた。朝から森に入っていたのなら、何か採ってきているはずだ。
「その——かご、の——なか、みせて?」
ノアが、少し躊躇してから、籠を箱の前に持ってきた。
葉が数枚。小さな実が一房。それから、灰色がかった細い根のようなもの。
「それ——なに?」
美緒が指さしたのは、銀色に光る葉だった。
ノアが、目を細めた。
「ツキシロ草」
「……どんな——はたらき、ある?」
その瞬間、ノアの表情が、ふっと変わった。
緊張が、解けた。
そういう顔だった。
◇
誰かに、聞かれたことがあっただろうか。
この草が何で、どんな性質があって、どう使うのか——村で、誰かに真剣に聞かれたことが。
ダグは笑う。村の大人たちは「薬師の真似事」と言う。ハンナばあちゃんだけが、聞いてくれた。でもばあちゃんは教える側で、僕は教わる側だった。
ミオは、知りたがっている。
本当に、知りたいという顔で——僕を見ている。
「ツキシロ草は——きず、の——うみ、出す」
ミオが身を乗り出した。
「ほかは?」
「三まい——だけ。ね、残す。来年——また、生える」
「根を残す? なぜ?」
「全部——取る——と、なくなる」
クドウが、端末に何かを打ち込み始めた。ソウタが前のめりになっている。
「あの根——灰色の——なに?」
「サルベ草。ばあちゃんの、て、いたい——楽に、なる」
「痛みを和らげる? どうやって使う?」
「すりつぶして——塗る」
「どこに生えてる?」
「岩かげ。日、当たらない——ところ」
質問が、止まらなかった。
僕も、止まらなかった。
村では誰も値打ちを認めてくれなかった、母さんとハンナばあちゃんから受け継いだ知識を——僕は、ただ話し続けた。言葉が足りなくて、身振りを交えながら。それでも三人は、夢中で聞いていた。
「すごい」
ミオが言った。
翻訳じゃなく、そのままの言葉で。
「ノアの——しきる、こと——すごい。ほんとうに」
「……」
なんと返せばいいか、わからなかった。
胸の奥で、何かが、じわりと溶けていく気がした。
◇
「工藤さん、記録全部取れてますか」
颯太が振り返った。
「当たり前だ」
工藤は端末を叩きながら、モニターから目を離さなかった。その横顔が、普段と違う。口数が少ないのはいつも通りだが、目の奥に、確かに何かが灯っている。
「ソラ、今の植物名の発音、全部ログしておいてくれ。あとで学名との照合を試みる」
「はい。ツキシロ草、サルベ草、ほか三種類。記録しました」
「あの子が言う性質が正しければ——」
工藤は少し間を置いた。
「未知の薬効成分が含まれている可能性がある」
美緒は頷いた。
「それよりも」
颯太が言った。
「あの子、楽しそうじゃないですか。さっきより、全然」
美緒はモニターを見た。
ノアが、銀色の葉を持ち上げて、光の具合を確かめながら何かを説明している。夢中になっているのが、画面越しでもわかった。
「そうだね」
美緒は、静かに言った。
◇
帰り道、僕は自分の足元を見ていた。
なんとなく、歩き方が違う気がした。
背中が、いつもより、伸びている。
村に戻れば、また出来損ないだ。ダグに笑われて、輪に入れてもらえなくて、何も変わっていない。それはわかっている。
でも——今日だけは。
あの三人が、夢中で聞いてくれた。ツキシロ草のことを。サルベ草のことを。誰も見向きもしなかった、この知識を。
「すごい」
ミオの声が、まだ耳に残っている。
翻訳じゃなく、そのまま出てきた言葉。
僕は、空を見上げた。夕暮れが近い。茜色が、木々の梢の向こうに広がっている。
ハンナばあちゃんが、よく言っていた。
「ノアの目は、お父さんに似て、いい目をしているね」
いい目。
今日、ミオが「すごい」と言ってくれたのは——この目のことだ。
森の植物を見分ける目。葉脈の向きを読む目。根の色で土の湿りを知る目。
魔法じゃない。でも、確かに、僕の持っているもの。
村の入り口が見えてきた。足取りは、来た時よりも、少しだけ、軽かった。




