第3話 言葉が通じない
翌朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは箱のことだった。
夢だったんじゃないか、とは思わなかった。
あの冷たい感触が、まだ指先に残っている。あの声が、まだ耳の奥に残っている。夢なら、もっとぼんやりしているはずだ。
「ノア、朝ごはんだよ」
台所からハンナばあちゃんの声がした。
「うん」
短く返事をして、僕は起き上がった。今日も、森へ行かなければならない。
境の樹の根元には、昨日と変わらず、静かな朝の光が落ちていた。
僕は倒木をよけて、下草をかき分けた。洞の中を覗く。箱は、ちゃんとそこにあった。
手を伸ばして取り出すと、表面はひんやりと冷たかった。夜の間も、ここで一人でいたのか。そう思うと、なんとなく、申し訳ない気がした。
「……また来た」
誰かに言うつもりで、言った。
箱は黙っていた。昨日みたいに光が走るわけでも、声が響くわけでもない。
どこかを触れば、動くのだろうか。
昨日は指先が触れた瞬間に起動した。だとすれば——
そっと、表面に手のひらをあてた。
光が、走った。
◇
「来た!」
颯太の声が、研究室に弾けた。
モニターに映ったのは、昨日と同じ森。同じ大樹の根元。そして——箱を両手で持って、こちらを覗き込んでいる少年の顔。
「ノア、おはよう」
美緒はカメラに向かって、ゆっくりと手を振った。
少年——ノアが、少し目を細めた。警戒ではない。昨日より、ほんの少しだけ、表情がやわらかい。
「昨夜、ソラの解析どこまで進んだ?」
工藤が端末を叩きながら、画面の隅に視線を向けた。
「音素の分類まではできています。単語の切れ目の推定精度が六十三パーセント。まだ低いですが、データが積まれれば上がります」
ソラの穏やかな声が、室内に静かに流れた。
「急かすな、ということか」
「焦るより、今日もたくさん話しかけてあげることのほうが大切です」
工藤が小さく鼻を鳴らしたのを、美緒は横目で見た。口では言わないが、否定もしていない。
「じゃあ、始めましょうか」
美緒はカメラの前に椅子をひき寄せて、ノアの顔を正面から見た。
◇
枠の中の人たちは、昨日より落ち着いていた。
ミオが椅子に座って、こちらをまっすぐ見ている。その後ろに、クドウとソウタが立っていた。奥には、もう一人、昨日は気づかなかった人がいる。白っぽい頭の、目の周りに何かを付けた老人。
目が合うと、老人は軽く頷いた。
なんとなく、挨拶をされた気がして、僕も頷き返した。
「ノア」
ミオが、僕の名前を呼んだ。それから自分の胸を指さして、「みお」と言う。昨日と同じだ。次に、隣のクドウを指して何か言った。「くどう」という音が聞こえた。それから、ソウタを指す。「そうた」。
名前を、教えてくれている。
「ミオ、クドウ、ソウタ」
繰り返すと、ソウタが大げさなくらい大きく頷いた。ミオが、おかしそうに笑っている。
次に、ミオが何かを指さした。
木の葉だった。
僕が昨日、箱に見せた葉と同じものを——枠の中のミオが、持っていた。
あの葉が、あちらへ届いていたのだろうか。いや、そんなはずはない。見せただけで——
違う。
よく見ると、それは「絵」だった。
薄く白い紙の上に、葉の形が描いてある。葉脈まで、細かく。
「すごい」
思わず声が出た。
ミオが「なに、これ」というように首をかしげながら、葉の絵を掲げたまま、何かを言った。意味はわからない。でも、「教えてほしい」という顔をしていた。それだけは、わかった。
◇
美緒が葉の絵を描いたのは、昨夜のことだった。
「言葉が通じないなら、絵を使えばいい。ノアが持っていたあの葉——薬草の可能性があるって、ソラが言ってた。聞いてみたい」
工藤は「遠回りだ」と言ったが、止めなかった。
そして今、絵は正解だったと証明されつつある。
ノアの目が、変わった。
さっきまでの慎重な目ではなく——何かを確かめるときの、鋭い目に。そういえば昨日も、こちらが見せるものに対してだけ、ぐっと前のめりになる瞬間があった。
「好奇心が強い子なんですよ、きっと」
ソラが静かに言った。
ノアは葉の絵を見ながら、何かを言い始めた。ゆっくりと、一語ずつ区切るように。
「ソラ、今の記録できてる?」
「はい。解析中です。……一つ目の単語、繰り返し出てきています。おそらく植物を指す名詞かと」
「なんて聞こえる?」
「『ツキシロ』、に近い音です」
美緒はノアを見た。ノアはまだ話し続けている。指で、葉の絵の上をなぞりながら。葉脈の向きを示しているのか、それとも何か別のことを説明しているのか。
「ツキシロ草、かな」
「薬草でしょうか」
「たぶん。あとでちゃんと調べたい」
美緒は身を乗り出して、ノアの言葉に耳を傾けた。
◇
どれくらい話しただろう。
言葉は通じなかった。一語も。それでも、絵を描いて、指さして、身振りで示して——二時間近く、僕たちはやりとりをした。
枠の中のミオは、何度でも笑ってくれた。わからないときは首をかしげて、伝わったときは目を輝かせた。
クドウは無口だったが、端末に何かを書き続けていた。僕が珍しいものを見せるたびに、その手が止まるのが見えた。
そのとき、箱の側面に、細い隙間があることに気づいた。
昨日は気にしていなかった。でも、光の角度が変わったせいか、今日ははっきり見える。横に細長い、薄い開口部。指先がちょうど入るくらいの幅だ。
「なんだろう」
しゃがんで、覗き込んだ。中は暗くて、何も見えない。
そのとき。
枠の中で、ソウタが何かを叫んだ。
ミオがそれを止めようとしたが、間に合わなかった。
細い隙間の奥から、何かが、ぬっと出てきた。
僕は、飛び退いた。
息を呑んで、地面に手をついて、三歩分下がった。
出てきたのは——棒だった。
細い、黒い棒。長さは指二本分ほど。ゆっくりと、隙間から押し出されるように出て
きて、草の上に、ころんと転がった。
「……」
枠の中では、ソウタが何かわめいていて、ミオに頭を叩かれていた。クドウが肩をすくめている。
怖いものじゃない、ということは——なんとなく、わかった。
あの三人が笑っているなら、たぶん。
僕はゆっくりと近づいて、棒を拾い上げた。
つるりとした感触。軽い。黒くて細くて——先端が、白くなっている。
ミオが枠の中で、何かを言いながら、手を動かした。
何かを書く仕草だった。
◇
「颯太、勝手に転送するな」
「でもほら、伝わったじゃないですか!」
「順番があるだろうが」
工藤の声は低かったが、モニターから目を離さなかった。
ノアが、ペンを手の中で転がしている。おそるおそる、という感じで。それから、地面に向けてみる。白い先端が土に触れた瞬間、細い線が引けた。
ノアの目が、大きくなった。
「書けるって、わかってくれた」
美緒は思わず声に出した。
ノアは地面に何かを書き始めた。丸。それから、棒線。それから——木の形に見える何か。
「地図……?」
「いや」
工藤が眼を細めた。
「植物だ。葉の形を描いてる」
ノアが顔を上げた。描いた絵と、枠の中の美緒を、交互に見た。「これはわかるか」という目だった。
美緒には、わからなかった。
でも——わからないと正直に首を振ると、ノアは少し考えてから、今度は別の形を描き始めた。
「何度でも、試してくれようとしてる」
美緒は静かに言った。
「頭のいい子ですね」
ソラが、いつもの穏やかな声で言った。
◇
黒い棒で地面に絵を描くのは、思ったより難しかった。
土の上だと線がにじむし、石の上だと滑る。でも、慣れてくると、だんだんうまくなった。
ミオが枠の中で何かを言うたびに、ソウタが横から割り込んで、また頭を叩かれる。その繰り返しが、なぜかおかしくて——僕は気づけば、笑っていた。
声には出なかったけれど。口の端が、勝手に動いた。
ミオが、それに気づいて、嬉しそうな顔をした。
「ノア」
呼ばれた気がして、顔を上げた。
ミオが、自分の胸のあたりを指さした。それから、枠の外——どこか遠くを——指さして、また何かを言った。
「とおい」という音が、聞こえた気がした。
「遠い、ってこと?」
意味があるかわからないまま、言ってみた。
ミオが、目を丸くした。
「……とお、い?」
ミオが、繰り返した。僕の言葉を。発音はおかしかったけど——確かに、僕の言葉だった。
「遠い」
「とおい」
「遠い」
「とおい」
なんとなく、大事な何かが起きている気がした。うまく言葉にできないけれど。
二つの世界の言葉が、ほんの一語だけ——重なった瞬間だった。
◇
日が傾き始めたころ、僕は箱を洞に戻して、村への道を歩き始めた。
頭の中が、いっぱいだった。
ミオたちのこと。細い棒のこと。あの隙間から物が出てきたこと。言葉が一語、重なったこと。整理しようとすればするほど、次々と別のことが浮かんでくる。
村の入り口に差しかかったとき、声をかけられた。
「ノア! また森? 最近よく行くね」
ティナだった。
雑貨屋の前で箒を持ったまま、こちらに手を振っている。明るい茶色の髪が、夕風に揺れていた。
「……うん」
「何か採れた?」
「ちょっとだけ」
答えながら、僕は自分の顔が固くなるのを感じた。嘘をついているわけじゃない。でも、全部は話していない。それが、なんとなく、息苦しかった。
「また珍しい薬草でも見つけた?」
「どうかな」
「ふうん」
ティナは少し首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
「気をつけてね。最近、森の奥のほうに大きな獣の足跡があったって、ダグのお父さんが言ってたから」
「うん。ありがとう」
歩き出してから、ずっと胸の中が落ち着かなかった。
誰かに話したい、と思った。
あの箱のことを。枠の向こうの人たちのことを。細い棒が出てきたことを。「遠い」という言葉が重なった瞬間のことを。
でも——話せない。
話したら、どうなるか、わからない。
箱を取り上げられるかもしれない。あの人たちに、二度と会えなくなるかもしれない。
「…………」
家に着くまで、僕は一度も振り返らなかった。
秘密というのは、こんなに重いのか。
それとも、誰かに打ち明けたくてたまらないというのが、こんなに苦しいのか。
どちらかわからないまま、夕暮れの村の路地を、僕は一人で歩いた。




