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第2話 箱の中の声

その声は、人のものだった。


けれど、意味がわからない。




音の連なりが、どこか遠い泉から届くように、低く、静かに、箱から溢れている。ひとつひとつの音は、確かに声だ。喉と唇と、息を使って紡いでいる、人間の声。




それだけは、わかる。


なのに——一語も、知らない言葉だった。




「……」




僕——ノアは、しゃがんだままで、動けなかった。




指先は、まだ黒い表面に触れていた。ひんやりと冷たいはずなのに、もう冷たさを感じない。心臓が速く打って、耳まで熱い気がする。


逃げるべきだ、と思う。




でも、足が言うことを聞かなかった。







一方そのころ。




現代日本——黒川研究室。




ブザーが鳴ったのは、実験終了から十三時間後のことだった。




「美緒さん、来て! モニターが——!」




颯太の声が廊下に飛んだ。


大学院生の岡部美緒が研究室の扉を開けた瞬間、目に飛びこんできたのは、主電源が落ちているはずの実験用モニターが、ぼんやりと灯っている光景だった。




「え……」




モニターの前で、工藤がすでに椅子をひき寄せて端末を叩いている。その横で颯太が、スマートフォンを向けて震える手で撮影していた。




「映像だ。試作機から、ライブで映像が来てる」




工藤の声は、低く、静かだった。だが、その声が滅多に出さない種類の声だと、美緒はすぐに気づいた。


工藤が、動揺している。




「昨日消えた機械から?」


「そうだ。通信モジュールが生きてる。完全に切れてたはずなのに」




美緒は工藤の隣に立って、モニターを覗き込んだ。




映っているのは、森だった。


木漏れ日。湿った土。太い根が地面を割るように広がる、巨大な木の根元。カメラの内蔵レンズが捉えた映像は、不安定に揺れながら、しかし確かに「どこか」のリアルタイムの景色を送ってきていた。




そして——。




根の向こうに、少年がいた。




蒼い目の、黒髪の、小柄な少年。籠を背負って、地面にしゃがんで、まるで祈るような目で試作機を見下ろしている。




「子ども……」




美緒は、思わず呟いた。







箱の表面の光が、また動いた。




筋が消えて——代わりに、四角く区切られた枠が、表面に浮かびあがる。




そこに映っているのは、人だった。




見たこともない場所に、見たこともない服を着た、何人もの人間。天井は高く、光が白すぎるほど明るい。建物の中——なのに、松明も魔石燈もひとつも見えない。あの光は、いったい何なのか。




声がまた、響いた。




今度は、複数の声が重なっている。慌てているのか、何かを言い合っているのか——僕には、わからない。でも、その声は、険しくなかった。




怒っている声じゃない。


おびえている、わけでもない。


どちらかというと——驚いている声だった。




「……」




僕は、枠の中の一人の顔を見た。


黒い目、黒い髪。肩のあたりで切りそろえた、大人の女性。歳は、村で言えば若い衆の中くらいか。彼女が画面の向こうから、まっすぐに——僕を見ていた。


枠の向こうに、向こうも枠があるのだと、そこで気づいた。


向こうからも、見えているのだ。


彼女は、口を動かした。優しい響きの言葉が流れてくる。知らない言葉。でも、怖くない声だった。







「怖がらせちゃだめだよ。ゆっくり」




美緒は颯太を小声で制して、カメラに向き直った。




なるべく穏やかに見えるように。なるべく、笑顔で。


子どもだ、という確信がある。まだ十代前半だろうか。小柄で、表情が固まっている。怖い。でも、逃げていない。そのことが美緒には、ひどく気になった。




「こんにちは。驚かせてごめんね。私は美緒。あなたは……?」




通じないとわかっていても、声をかけずにはいられなかった。


カメラのこちら側——つまり、試作機の画面に映っているはずの自分——を指さして、もう一度言う。




「美緒。みお」




その瞬間。


少年が、かすかに動いた。


目が、わずかに、大きくなった。







あの人が、自分を指さした。




「ミオ」と言った。




名前だ。




言葉はわからなくても、それだけは、わかった。自分を指さして言う言葉は、名前だ。母さんが教えてくれた、森の植物の一番最初の覚え方——「指さして、声に出す」。それと、同じことをしている。


僕は、ゆっくりと、自分の胸に手を当てた。




「ノア」




向こうの女性———ミオ——の目が、丸くなった。隣の男が何か言って、奥の背の高い男も振り向いた。




「のあ、って言った? 今!」




颯太が跳び上がりそうな声を出した。工藤が「うるさい」と制する。でも、口の端が少し上がっている。


美緒は息を整えて、もう一度カメラに向き直った。




「ノア……」




繰り返すように、言う。




「ノア」




少年が、こくりと頷いた。




名前が、通じた。それだけで——なぜか、胸が詰まった。







「あ——」




声が、出た。




自分でも驚いた。こんな小さな声が出るとは、思っていなかった。




ミオが、もう一度「ノア」と言った。今度は、穏やかな笑顔と一緒に。




精霊じゃない。魔道具でもない。これは——人間だ。どこか遠い、知らない場所にいる、人間。それだけは、もうはっきりわかった。




僕は立ち上がって、一歩、箱に近づいた。




向こうで、また誰かが何か言った。フウタ、とミオに言われた男の子が、勢いよく椅子から立ち上がり——それを今度は別の誰かに押し戻されている。笑い声らしき音が聞こえた。




笑い声は、怖くなかった。


陽の光みたいな、笑い声だった。







部屋の奥から、黒川教授が近づいてきたのはそのときだった。




白髪交じりの頭、厚い眼鏡。普段はぼんやりした目をしている教授が、今日だけは違う目をしていた。少年の映る画面を、しばらく、黙って見ていた。




「……教授」




美緒が呼ぶと、教授は小さく頷いた。




「工藤くん。ソラに、音声の記録と解析を始めさせなさい。この子の言語のデータを積む。それから——」




静かな、でも揺るがない声だった。




「今日から、この件は研究室の外に出すな。絶対に」




全員が、振り向く。




「転移が成功したんだ。それだけで、もう十分すぎる。大学に、学会に、マスコミに——今この瞬間に知れたら、どうなるか、わかるね」




誰も、口を挟まなかった。




「あの少年がどこの誰かは、まだわからない。言葉も、場所も、何もかもこれからだ。それが判明する前に外へ漏れたら——私たちは研究どころじゃなくなる。あの子もだ」




教授は眼鏡の奥の目を、画面の少年へ向けた。




「まず、落ち着いて調べる。順番を間違えるな」




美緒は画面を見た。少年が、箱の枠の中に映る自分たちを、じっと見ていた。怖さと、好奇心と、もうひとつ何か——形容しにくいものが、その表情に混ざっている。




守らなければ、と思った。


何よりも先に、そう思った。







日が傾いていた。




気づけば、ずいぶん長い時間がたっていた。向こうの部屋の窓の光が、橙色から紫に変わっていくのを、箱の画面越しに何度も見た。


ミオたちは、まだそこにいる。入れ替わりながら、でも誰かが必ずそこにいる。僕が帰らないでいる間、枠の向こうはずっと、灯ったままだった。




何かを伝えようとするたびに、言葉が通じなかった。




僕が木の葉を持ち上げて見せると、みおが目を輝かせて何かを叫んだ。僕が石を拾うと、フウタが手を叩いた。向こうが何かを見せると、僕には何が何かわからなかった。




それでも——なんとなく、わかることはあった。




害意がない。それは確かだ。




そして——誰かに、必要とされている気がする。




箱に触れるたびに、笑顔が向けられる。向こうも、僕のことが「知りたい」のだと、その目を見ればわかった。




「また、くる」




そう言いながら、僕は自分の胸に手を当てた。




それから、遠くを指さした。村がある方角を。


ミオが、小首をかしげた。通じたかどうかはわからない。




でも、彼女は笑って、手を振った。


波のように、ゆっくりと、上下に。何かを伝えようとしている——それだけは、わかった。




僕も、恐る恐る、同じように手を動かした。




小さな枠の向こうで、何人かが声をあげた。うれしそうな声だった。


僕は、箱を抱えた。予想よりずっと重い。でも、持てる重さだ。




境の樹の根元に、ちょうどいい大きさの洞があった。倒木の下草で蓋をして、見た目には何もないように整える。森の偽装は、僕の得意なことのひとつだ。




「明日も、来る」




誰も聞いていないのに、呟いた。




箱の向こうの人たちに。あるいは——自分自身に。


村へ帰る道で、今日はじめて気づいた。




手のひらが、少し、震えている。




怖かったからじゃない。


こんな気持ちを、なんと呼ぶのか——知らない言葉が、いくつか浮かんで、どれも当てはまらなかった。


ただ、胸の真ん中に、火のかけらみたいなものが灯っていた。




生まれてはじめて、僕の手のひらに。

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