第1話 魔法が使えない少年
魔法があふれる世界で、ひとりだけ魔法がない少年がいた。
彼が持っていたのは——植物の名前と、あきらめない好奇心だけだった。
◇◇◇
「見ろよ。出来損ないが、また突っ立ってる」
朝の広場に、ダグの声が転がった。
僕——ノアは、井戸の縁に腰かけたまま、動けなかった。
村の少年たちが輪になって、手のひらの上で遊んでいる。指を鳴らせば小さな炎が躍り、息を吹きかければ水の球がふくらむ。生活魔法。十三になれば、誰だってできる。
誰だって、できる。僕以外は。
「やってみせろよ、ノア。火のひとつくらい」
ダグが笑いながら、僕の肩を小突いた。村一番の狩人の息子で、僕より一つ年上で、頭ひとつ背が高い。彼の手のひらの上では、赤い炎が機嫌よさそうに揺れていた。
僕は、何も言えなかった。言い返したところで、僕の手のひらは冷えたままだ。指を鳴らしても、何も起きない。息を吹きかけても、ただの吐息が空に消えるだけ。
三年前。教会の「鑑定の儀」で、僕の魔力は測れなかった。
台座の水晶に手をかざしても、それはぴくりとも光らなかった。隣に並んだ子たちの順番では、水晶は赤く、青く、金色に輝いたのに。僕の番だけ、広間がしんと静まりかえった。神官さまは困ったように眉を寄せて、それからとても優しい声で言った。
「ノア。きみの魔力は……ほとんど、ないようだ」
ほとんど、ない。
その優しい声を最後に、僕は「出来損ない」になった。
体は同い年の誰よりも小さく、力も弱い。狩りには連れて行ってもらえず、薪割りの輪にも、井戸さらいの輪にも入れてもらえない。魔法が使えないというのは、この村ではそういうことだった。──いつまでも、一人前になれない、ということ。
「行こうぜ。出来損ないのそばにいると、火種まで湿っちまう」
ダグたちが、笑いながら去っていく。炎の残り香だけが、朝の空気にうっすらと漂っていた。
僕は井戸の縁から立ち上がり、背中の籠を背負い直した。
広場の隅で、雑貨屋の娘のティナがこっちを見ていた。何か言いたげに口を開きかけて──けれど僕は、気づかないふりをして歩き出した。
同情のまなざしを浴びるのは、嘲笑を浴びるのと同じくらい、息が苦しい。
向かう先は、決まっている。
村の外。アルダの森だ。
◇
森に一歩入ると、僕の足取りは変わる。
村にいるときの、背中を丸めた歩き方じゃない。木漏れ日の落ちる下草を踏みしめて、僕は胸いっぱいに息を吸い込んだ。湿った土の匂い。葉の、あおい匂い。鳥の声が、頭の上を斜めに横切っていく。
ここでは、誰も僕を笑わない。
「……ツキシロ草、芽吹いてる」
岩陰の銀色の葉に、僕はしゃがみこんだ。すりつぶせば、傷口の膿を吸い出してくれる。けれど採るのは三枚まで。根を残してやらないと、来年ここには生えてこない。
すぐ隣に伸びた蔓は、ハゼ蔓だ。触れると肌がひどくかぶれるから、葉のつけ根の、毒のまわらない部分だけをそっとつまんで、よけて通る。その奥にのぞく赤い実は、ノイバの実。熟すまで、あと半月。いま口にすれば、子どもなら丸一日、腹を下して動けなくなる。
森は、知らない者には牙をむく。けれど、見分け方さえ知っていれば、これほど豊かな場所はない。
母さんが、教えてくれた。
祖母のハンナが、教えてくれた。
二人で僕の手を取って、何百という葉を、実を、樹皮を、ひとつずつ覚えさせてくれた。
──ノアの目は、お父さんに似て、いい目をしているね。
母さんは、よくそう言って笑った。葉の裏のうぶ毛の向き、土の湿りぐあい、虫食いのあとの新しさ。僕が小さな違いを見つけるたび、母さんは自分のことのように嬉しそうだった。
「魔法が使えなくたって、ノアにはこの目がある」
そう言って、笑ってくれた。
母さんは、もういない。三年前の冬、治癒師にも治せない病で逝った。村に来てくれた街の治癒師は、首を横に振るばかりだった。魔法でも、救えないものがある。僕がそれを知ったのは、まだ十のときだった。
あのとき、僕の手のひらに、火のひとつでも灯せていたら。なにかが、違っただろうか。──そんなことを、考えても仕方がないと知りながら、僕はいまでも時々、考えてしまう。
村で薬師をしている祖母のハンナばあちゃんは、もう指がうまく曲がらない。朝が来るたび、関節が痛むと言って、それでも僕の前では笑ってみせる。
「平気だよ、ノア」
そう言いながら、僕の髪を撫でる。その手の指の節が、固くこわばっているのが、わかってしまう。
だから僕は、森に来る。痛みをやわらげるサルベ草を、探しに。
魔法で人を癒やせなくたっていい。僕には、これがある。植物の名前と、その性質。森のすべての、見分け方。村では誰ひとり値打ちを認めてくれない、たったひとつの、僕の知識。
──いつか。この知識で、ばあちゃんを楽にしてあげられたら。
そう思いながら、僕は籠に手を伸ばし続ける。それくらいしか、僕にできることはないから。
籠が半分ほど埋まったころ、僕はいつもより、ずっと奥まで来ていた。
サルベ草の群生を追ううちに、見慣れない木立に入りこんでいたのだ。
木立がふいに途切れて、ひらけた場所に出る。
その真ん中に、一本の大樹が立っていた。
◇
村の年寄りたちが「境の樹」と呼ぶ木だ。
幹は、大人が六人で手をつないでも回りきれないほど太い。梢は、首が痛くなるほど見上げても、まだ空に届かない。森の主のような木。
──あの樹のそばには、近づくものじゃない。
子どものころ、ハンナばあちゃんはそう言った。あそこは「世界の薄いところ」なのだと。昔むかし、あの根元から人がひとり消えて、二度と戻らなかった、と。ただの言い伝えだ。村の子を森の奥へ行かせないための、よくあるおとぎ話。
それでも僕は、いつも遠くから眺めるだけだった。なんとなく、近づいてはいけない気がして。
──けれどその朝は。
近づかずには、いられなかった。
樹の根元の空気が、歪んでいた。
陽炎のように、もやもやと景色が揺れている。なのに、暑くはない。それどころか、ぞくりとするほど涼しい。揺らぎの中心が、淡く光っていた。蛍の光を、うんと薄くのばしたような、白い光。
魔法だ、と思った。
次の瞬間、いや、違う、と思い直した。
僕は魔法を知らない。けれど、村の魔法はこんなふうには光らない。灯りの魔法はもっと黄色く、もっと素っ気ない。これは、こんなに静かで、こんなに──知らない光り方は、しない。
逃げるべきだ。頭の隅で、誰かがそう囁いた。境の樹。世界の薄いところ。消えた人。
でも、足は、反対に動いていた。
僕は、怖がりだ。狩りも、力比べも、ダグの拳も怖い。
けれど、知らないものを目の前にすると──怖さよりも先に、もっと強い何かが、胸の内側を押すのだ。
あれは、なんだろう。
その問いの前でだけ、僕はいつも、臆病でいられなかった。
一歩。また一歩。
近づくにつれて、もやが薄れていく。霧が晴れていくように、ゆっくりと。指先が、つめたい空気の膜をくぐったような気がした。
そして、揺らぎが、ふつりと完全に消えたとき。
境の樹の根元に、それは──在った。
◇
黒い、箱のような、何か。
高さは、僕の膝から腰のあたりまで。つるりとした表面は、磨きあげた黒曜石にも似て、けれど、石ではなかった。
金属でもない。木でも、骨でもない。
僕の知っている、どんな素材とも違った。継ぎ目のひとつもない、なめらかな黒。朝の光を静かに吸いこんで、ほのかな艶を返している。
僕は息をするのも忘れて、その前にしゃがみこんだ。
森のものでは、ない。村のものでも、ない。
きっと、王都にだって、こんなものはない。世界のどこにも──少なくとも、僕の知っている世界のどこにも、こんなものは、無いはずだった。
精霊の落としもの? それとも、はるか昔の魔道具? 言い伝えどおり、薄い世界の向こうから、こぼれ落ちてきた何か?
考えても、答えは出ない。僕の中にある言葉が、ひとつとして、当てはまらない。
植物なら、どんな葉でも見分けられる。木の実なら、毒のあるなしも言い当てられる。──でも、これだけは、わからない。生まれてはじめて、僕の知識が、まるごと役に立たなかった。
手を伸ばしては、いけない。
今度こそ、はっきりと、そう思った。
それでも──指先は、もう、動いていた。
胸の鼓動が、やけに大きく聞こえる。喉が、からからに渇いていた。それでも僕は、止まらなかった。指を、ゆっくりと、黒い表面へ。
そっと、ふれる。
ひやりと冷たい、信じられないほどなめらかな感触。手のひらの下で、その箱が、なにかをこらえているような──そんな、ありえない気配がした。
その、瞬間だった。
黒い表面を、光の筋が、走った。
ひとすじ。ふたすじ。
長いあいだ眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ますように、細い光の線が、箱の全体へと枝のように広がっていく。
低い、聞いたこともない音が、震えるように響いた。
僕は、指を引っこめることもできずに、ただ、見つめていた。
そして──
箱の中から、声が、した。
人の、声だった。
意味は、わからない。聞いたこともない、言葉。
けれどそれは、まぎれもなく──誰かが、何かを、僕に向かって、しゃべっている声だった。
僕は、凍りついた。
朝の森のただ中で。指先を、黒い箱にふれさせたまま。動くことも、声をあげることも、できずに。
箱の中の、誰かが。
もう一度、ゆっくりと、何かを──言った。
そして、黒い表面の光が、すうっと形を変えた。
走っていた細い線が集まって、つるりとした面の上に、ひとつの四角い枠が浮かびあがる。その枠の中に、ぼんやりと──色が、にじんだ。
それは、絵だった。
動く、絵。
見たこともない天井。見たこともない、明るすぎる光。そして、その絵の中から、こちらをのぞきこむ、いくつもの、人の、顔。
僕は、声にならない悲鳴を、ひとつ、喉の奥で押し殺した。




